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福島県

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概況

本田豊によると、福島県には三春、平(現・いわき市)、福島、二本松、白河、会津坂下、会津高田(現・会津美里町)などに[1]20ヶ所近く、あるいはそれ以上の被差別部落が存在するという[2]。下記の統計では浜通りや中通りの被差別部落の存在が無視されている、と本田は批判している[3]。川元祥一は『解放新聞』1986年11月24日付のルポ「福島県の部落で」で、県内の部落の数を約30ヶ所、1-2戸の極少数部落を入れると50ヶ所としている。

『講座差別と人権』第1巻177頁に「福島県でも同年(引用者注、1983年)六月、七支部が合同して東北地方では初めて正規の部落解放同盟県連が結成されたのである」とある。ただし、この県連は現存していない。

福島県の被差別部落の統計[4][5]

調査年 地区数 戸数 人口
1869~70年(統計集誌明治15年) - - 2061(非人763)
1907年 7 187 1236[6]
1921年 6 184 1240[7]
1922~28年(協調会への報告書) - 約300 約1400[8]
1929~30年(三好伊平次) 6(+?) 177 901
1930年 5 177 901
1935年(中央融和事業協会) 8 173 998
1946年[9] - - 998
1958年[10] 2 148 745
1963年[11] 2 57 地区全体278、同和関係265
1965年(同対審答申) 2(ただし同対審『調査部会報告書』ではさらに6部落を別途把握) - -
1967年(野本武一) 10 249以上 -
1986年(川元祥一) 50 - -[12]
1993年(『東日本の被差別部落』17頁) 17(かつて存在したことは明らかだが近年まだ確認されていない地区は数十) - -

多くの場合は10戸から20戸程度で、戸数僅か1戸のものもある[13]。県下最大の被差別部落は会津若松市西七日町(旧称・祝町)[14]にあり、戸数は120戸にのぼる[15]。現地では外苗(ゲネ)、外内町(ゲナイ町)と呼ばれており、被差別部落民を異民族と見る向きもあるという[16][17]。1877年1月の「福島県管轄北会津郡若松村戸籍」の「北会津郡若松祝町戸籍統計」によると戸数は124、人口600(男288、女312)を数えた[18]。1868年には、戊辰戦争で戦士した会津藩士の死体を処理するにあたり763人の部落民が動員されている。

会津藩領居住区分布(軒数)[19]

居住区 穢多 癩人(ジウ) イタカ
若松 71 ? 8
野沢原町 3
東青津村 2
小千谷町 15
十日町 4
塩沢村 10
高田村 5
中島村 3
113 ? 8

祝町部落で唯一の富裕層は大津屋の屋号を持つ林家だけで、資産は数億円と伝えられた[20]。昔は大津屋と並び五十嵐という富裕な一族がいた[21]。大津屋は毛皮や竹皮草履、ゼンマイを扱っており、大津屋の当主の末弟が東京の浅草で三和物産という肉屋をやっていた[22]。大津屋は祝町部落に4つある血縁関係(一統と呼ばれる)の最大のものの本家で、大津屋を本家とする血統は約40戸にのぼる[23]。大津屋は2017年現在も東京都台東区今戸1-2-13で毛皮屋を営んでいる(代表取締役は林英彦)。

また「秋田屋喜三郎」を名乗る太鼓製造業者がいた[24]。ただし祝町の部落民の8割から9割は赤貧層である[25]。「このちかく出身の高名な歌手が、若松市のステージで、泣きながら部落でないことを訴えた」といわれる[26]。この歌手は春日八郎(会津坂下町塔寺字大門の生まれ[27])の可能性が高い。

この他、会津若松市の南部には通称イタカ町(ヱタカ町、穢多下町、井高町とも表記[28])という戸数8戸の雑種賎民部落もあったが、黒川べりから材木町の郊外、さらに「材木町ノ東町分」[29]に移っている[30]。材木町2-1-14に「只見線井高町街道踏切」がある。このイタカ町の伝統産業は飴練(あめねり)であった[31]

川元祥一による『解放新聞』1986年11月24日付のルポ「福島県の部落で」には、加倉屋肉店(福島県会津若松市桧町3-26)の店主の鈴木一幸が実名で登場し、「げね町のあれ」と呼ばれて育った旨を述べている。鈴木一幸の叔父の山口慶悟は祝町出身の町会議員(のち県会議員)で、食肉店「山留」(福島県会津若松市西栄町8付近)の店主であった[32]

福島藩では1703年以降、穢多は腰浜村(こしのはまむら。村域は現在の福島市仲間町・腰浜町・上浜町・新浜町・東浜町・浜田町・五老内町・北五老内町・桜木町のほぼ全域ならびに舟場町・宮町・旭町・霞町の各一部)にのみ居住しており、同年の同村には26人の穢多が居住していた[33]。後世、同村からは平野小剣(出生名・栃木重吉)が出ている。野本武一は、福島市の部落について「4戸の部落が駅の近くであったため町の発展を害するとかで強制的に取りのけられていた」と伝えている[34]。水平社の同人では沖田留吉(沖田松右)[35]も福島県田村郡の出身であるが[36]、『全國部落調査』に田村郡の部落の記載はない。沖田の出身部落名は不明だが、「隣村滝根町」の小学校の代用教員を務めたという『部落問題事典』の記述と白山神社の所在地から推測すると、船引町(現・田村市)と思われる。なお松島太鼓店が田村市船引町今泉西原162-31にあるが、白山神社の所在地からは離れており、部落との関連は不明。

人口比における穢多の比率が高かったのは湯長谷藩(現・いわき市常磐下湯長谷町)であり、1870年には全戸数1753、全人口8230人のうち、穢多は118戸、485人を占めた[37]

会津藩では若松城下の穢多町から西へ、青津(現・河沼郡会津坂下町青津)、塔寺(現・河沼郡会津坂下町塔寺)、野沢(現・耶麻郡西会津町野沢)、そして越後の津川(現・新潟県東蒲原郡阿賀町津川)へと穢多集落が続いていた[38]。穢多町に対し、非人小屋は若松の名古屋町(現・会津若松市大町)のそばにあった[39]

『ニコライ・A・ネフスキイ氏書翰翻刻(1)』に以下の記述がある。

北神谷の鎮守様は御承知の通り白山神社です。之をあやまつてシラヤマ神社と云ふと百姓が非常に怒る相です。「我々は立派な百姓ですがバンタではあるまいし」と。
右のシラヤマ権現はバンタの神になつて居りますから。白(ハク)山神社の御神体は臼だつたそうです。バンタの外に特殊部落として箕直しと筬掻きがあつて、重に中神谷にゐると高木君が話して呉れました。

中神谷とは、いわき市平中神谷のことであるが、『全国部落調査』には記載がない。

田村郡三春町の部落については、大内寛隆が以下のように記している。

三春の城下はずれの八幡町がわたしの生まれ育ったところで、そこの地続きの城下の門外に居住エリアに10軒ほどの穢多と呼ばれて差別を受けていた人たちが、かつて住んでいたといいます。そこから数百㍍離れたところには、ジウ屋敷というものがあったといいます。藩政時代に、八幡町の小肝煎がそのエリアを支配していたからでしょうか、近代以降、行政的に八幡町に包括されていました。そのエリアに友達がいて、わたしたちは、学校でも地域でも一緒に勉強したり遊んだりしました。地元の町役人の記録の中に、こうしたことの記録があったので、三春町史を執筆する際に、これらの人々について書きました。それを編纂室長の原 宏さんも監修の故大竹正三郎さんも一字一句もカットせずに収録してくれました。それを「福島県史」・「新編会津風土記」などによって対象を県内全域に拡げて整理し、「近世における被差別身分の実態-三春藩とその周辺-」(「福島地方史の展開」所収、1985[昭和60]年)としてまとめました。[40]

田村郡三春町八幡町38に「松島太鼓店」があり、同八幡町39に「松島精肉本店」がある。この位置は以下の記述に見える「踊り場」交差点に接している。

三春城下八幡町末「ジウ屋敷」 八幡町末、城下境の日蓮宗法華寺の外側、三春城下黒門外に「踊り場」という地名が残ります。江戸期にあった大桂寺の門前にあたります。ここは、城下と農村の境目、所謂「隈」地帯で、非人居住区に当たります。そこの地続きの城下黒門(郭門)の外居住区に10軒ほどの穢多と呼ばれて差別を受けていた人たちが、かつて住んでいたといいます。[41]

三春の部落について、大内寛隆は「穢多の居住区は、すでに述べたように、八幡町末で、黒門外であったというから、法花寺門前西手にあたり、北側33番地より西手、南側42番地より西手の10区画分の中に含まれていたと推定される。人別帳の軒数からみて、隣接する雁木田、丈六にはなかったと考えてよい」、「癩人小屋のうち、三春の場合は、鎌田小屋、鎌田癩人小屋と記され『字鎌田前』という小字名があるところから、『字一本松』か『字山崎』地内にあったと推定されるが、確定できない」[42]という。

享保8年の資料によると、20名の癩者が何らかの事情で三春藩に流入しており、そのうち6名が下野国の出だったという[43]。そして三春藩では癩者が非人として扱われていた[44]。なお松島姓が日本で最も多いのは2000年電話帳によると栃木県小山市稲葉郷である。三春の「松島太鼓店」「松島精肉本店」の経営者の祖先が下野国から来たかどうかは調査を要する。

須賀川市の部落について「安永7(1778年)の幕府の御触に対する請書によって、仁井田(現須賀川市仁井田・向陽町)・滑川(奥州道中に沿った村。現須賀川市滑川)両村に非人がいたことがわかる」[45]とも大内は述べている。

白河市の部落について「城下東端の桜町末の大木戸を出て、谷津田(やんた)川に架かる橋を渡って、関山道と分岐して棚倉街道に出る付近にあったと推定される」[46]とも大内は述べている。

東白川郡棚倉町の部落について「明治2(1769=原文ママ)年の棚倉藩には、穢多17戸・人員107人(男54人・女53人)、非人6戸・人員29人(男16人・女14人)がいたと書出されている。また、『享保2(1717)年酉8月御巡見様御通筋御案内控 伊野両町』には、

猿牽穢多有高
一三拾六人 内男廿三人 女十三人

と記録されている。なお、伊野両町とは、棚倉城下の伊野上村と伊野下村の二村のことで、伊野上村に新町、伊野下村に古町・鉄砲町・下町などが形成された」[47]とも大内は述べている。

西白河郡中畑村(現・西白河郡矢吹町中畑)の部落について、天明2(1782)年の「番太 喜太郎」の願書を引き「中畑村に非人が住んでいたことは(略)明らかである」[48]とも大内は述べている。

  • 「石川郡上蓬田村に穢多小屋があった。(略)上蓬田村は、笠間藩領小野仁井町(現・小野町大字小野新町)と御斎所街道の石川との間の宿駅であった」[49]
  • 「平城下の非差別身分(ママ)の居住区域は、市内を流下して夏井川に合流する新川地域にあった」[50]
  • 泉藩領(現・いわき市泉)の部落民は「藩制一覧表」によると「穢多 戸数24軒 人口98人 男54人 女44人」。それ以外は不明。
  • 中村藩領(現・相馬市)の部落民は「藩制一覧表」によると「穢多 戸数5軒 人員56人 男36人 女20人」「非人 戸数15軒 人員117人 男63人 女55人」。それ以外は不明。

2002年には、埼玉県児玉郡上里町立隣保館の訓練室でデイサービスを利用している女性が「私の故郷の福島県会津田島ではお祭りに参加できない人がいた。その人たちはカーボーといわれていた」と発言し、解放同盟に糾弾されたことがある。しかし、会津田島(福島県南会津郡南会津町田島)の地区も『全国部落調査』には記載がない。因みに南会津郡南会津町(旧・田島町)針生では川田久義が1979年に「川田太鼓工房」を創業している。関連して『同和教育を知る 差別の現実に深く学ぶ』(本田豊、エムティ出版、1992)に「すぐに皮革業を連想する『△田』あるいは『K△』姓は、東日本に関するかぎり、百パーセントに近く部落の苗字であった」との指摘もある。

部落解放同盟は福島県会津地区の部落を暴露した上、住民に部落民になることを強要している。[51]

「部落はない」といわれ

会津地方と米沢市の現状

東北地方の被差別部落研修

「解放新聞」(2012.10.15-2589)

会津坂下町では、部落側だけが側溝が細くなるという現実がいまだに残されている。

(略)

かつて町は、同和対策事業を住民に黙って実施した。住民側は「同和地区実態調査除外申請」を出すまでの事態になり、それ以降、政府の問い合わせに町は応答していない。

文献

全國部落調査(1935年)

福島縣 昭和十年二月現在

148頁

部落所在地 部落名 戸数 人口 主業 副業 生活程度 現在地 備考
福島市 腰浜[52] 代町 三一 食肉商 屠夫、日傭 福島市 上浜町[53] 腰浜の読み方は「こしのはま」で腰ノ浜とも表記。平野小剣(出生名は栃木重吉)の出身地区。平野の本籍ならびに出生地は上浜町26番地[54]。平野自らが1923年に「福島市の東南を流れる大きな川、それは誰もが知つてゐる阿武隈川だ。その流れに沿ふた一区域──元、信夫郡腰浜村字浜辺、通称、下町──これがあらゆる社会の階級から侮辱の的の穢多村だ」、「明治42年頃であつたか、福島市に合併されて下町から代町となつた[55]」、「福島市の附近には俺の村より外に特殊部落はなかつた」[56]、「俺の生れた村は小さな町位の戸数と人口を有してゐた。(略)明治34年の冬であつたか火災に遭つて全戸数の殆んどを焼燼して、今は僅かに15、6軒ほどしか残つてゐない」[57]と暴露している。平野姓も栃木姓も現存せず。2000年電話帳。戦前からの白山神社の氏子によると、戦前には12軒ほどの氏子がいたという[58]。また、かつて栃木姓の者が住んでいたが、今(引用者注、2002年)は福島県内の別の場所に移っているともいう[59][60]
伊達郡 栗野村 柳田 町ノ内 製革業 伊達市 梁川町柳田町ノ内 「梁川町には窂屋敷があって、処刑等に従事する長吏と呼ばれる穢多非人がいた。その支配頭は福島町の穢多であった」[61]

149頁

部落所在地 部落名 戸数 人口 主業 副業 生活程度 現在地 備考
若松市 祝町 祝町 九五 五六五 食肉商、製革業 草履製造 会津若松市 西七日町 国道252号線から南側の斜めに区割りされている地区が部落、北側の南北に区割りされている地区は一般[62]。1967年に祝町から西七日町に改称。フリガナはイワイマチ。七日町九丁目と呼ばれていた時期もある[63]。同地では滋賀県から来たとの伝承がある[64]。地区の穢多寺(おそらく西七日町3-34の西福寺)を境にして城に近い方を「上」、遠い方を「下」と呼ぶ[65]。「下」は竹細工を主とする恐らく非人系の部落で履物や樽や竹刀を作って暮らしていた[66]。一方「上」は穢多系の部落で肉屋が多い[67]。西七日町1-15に力道山ゆかりの老舗肉屋「肉の庄治郎」があり、店主の姓は鈴木。西七日町3-3に「鈴木静夫食肉店」もある。西七日町2-8に「ナチュラルミートサトー」があり、店主の姓は不明だが恐らく佐藤。西七日町3-17の「ヤマゴ精肉本店」の店主は五十嵐姓。鈴木姓21件。五十嵐姓14件。山口姓9件。磯田姓2件。林姓1件。2000年電話帳。
河沼郡 野沢町 下條 原町 一三 八〇 草履製造、製革 鼻尾製造、日傭 耶麻郡 西会津町 野沢 下條乙 『全国同和地区実態調査抽出地区精密調査報告 農山漁村型』139-140頁では「河沼郡野沢栄町」(23戸)と記されている。原町と別の部落なのか、単なる誤記なのかは要調査。
〃 八幡村 塔寺 大門 下町 三四 一八七 食肉商、製革 草履製造 河沼郡 会津坂下町 塔寺 大門 通称、塔寺二区[68]。長野県伊那市高遠の者が、山形県山形市に一時住んで来たのが起源と伝える[69]。この地区から出た著名人に歌手の春日八郎(本名は渡部実)がいる[70]。ただし春日八郎の生家の家業は麺類製造ということになっている[71]。真偽は要調査。渡部姓なし。伊藤姓2件。2000年電話帳。
西白河郡 白河町 下町 六一 製革業 食肉商 白河市 士多町 「下町(現士多町) 田町の北端より東に入り南側に折れた町。南北の長さ二〇八間、道幅三間三尺。町の南端に子安稲荷の子社、北に鉄砲組の稽古所がある」(『白河市史』第10巻第2編旧町村沿革第1章白河町628頁)
石城郡 平町 堤内 一六 六三 屠夫、食肉商、製革業、日傭 いわき市 渡辺町上釜戸 堤ノ内 近代部落史資料集成 第九巻』(原田伴彦、上杉聰、三一書房)28頁には「石城郡平町 戸数二三、人口一三九人」とある。
双葉郡 富岡町 郡山 廣畑 農業 製革業 双葉郡 富岡町 上郡山あるいは下郡山 現在の上郡山にも下郡山にも小字「広畑」があった[72]
計八 一七三 九九八

※『解放新聞』1980年9月22日付「東北オルグ座談会」によると、会津高田町(現・会津美里町)の部落は白山神社付近にある。川元祥一による『解放新聞』1987年2月2日付のルポ「福島県の部落で 終」によると、会津高田町の部落は観音北(7戸)であり、観音北からの転出者3戸で形成された部落が内河原(ママ。現在は内川原と表記)にある。このルポには、観音北出身で内川原に住む長原幸男の談話が実名で載っている。長原によると、観音北の総本家は伊藤家であり、それに次ぐ本家は、伊藤家の前に住む長原家である。長原家の祖先は江戸時代に栃木方面から来たとの伝承がある。長原家出身の長原亨は内川原在住であり、会津高田町の町会議員をつとめた。観音北に伊藤姓2件、長原姓なし。内川原甲に長原姓1件。2000年電話帳。

白河市には少なくともさらに1ヶ所の部落があり、三十三間町と呼ばれていた[73]。『白河風土記』の城下桜町の項に「宗祇戻 町の尾穢多町へ移る小坂の所を云ふ」とあり、賤民聚落は桜町の外れにあったことがわかる[74]。旭町1-210-4に白山姫神社があるほか、旭町1-162には山崎太鼓店もある。旭町1-167には大竹肉店もある。旭町は桜町に隣接しており、桜町の外れという条件に合致する。「今昔マップ」(1928~1945年)によると桜町の一部を含む可能性あり。『日本歴史地名体系7福島県の地名』379頁の桜町・鍛治町の項目にも「三十三間とよばれる小字名」は「町の南東」であると記されている。白河市旭町に山崎姓6件。大竹姓4件。2000年電話帳。

また二本松市にも20戸の部落があると野本武一は『全国同和地区実態調査抽出地区精密調査報告 農山漁村型』139-140頁で述べているが、具体的な町名は記していない。

施設等

隣保館

  • 福島隣保館保育所 - 福島県福島市須川町3-30

関連団体

  • 部落解放同盟福島県連合会 - 福島県会津若松市城東町4-16 伊藤勝男方 ℡0242-27-2656
  • 全日本同和会福島県連合会 - 福島県郡山市長者3-5-31
  • 全日本同和会福島県連合会 - 福島県いわき市小名浜住吉字冠木46
  • 全日本同和会福島県いわき地区協議会 - 福島県いわき市内郷綴町七反田17-2-3-3-28

白山神社

  • 会津若松市北会津町二日町北上川原
  • 会津若松市北会津町伊和保字縄渕乙62番
  • 会津若松市北会津町今和泉
  • 会津若松市西七日町(場所は現在では不明[75]
  • 福島市上浜町10[76]
  • いわき市泉町玉露定田34(八幡白山神社)
  • いわき市平下大越石田167
  • いわき市鹿島町上蔵持字滝浪9番
  • いわき市平北神谷字神下43番
  • いわき市勿来町白米宮沢2番
  • いわき市四倉町字田戸285番
  • 二本松市木幡字治家49(隠津島神社の境内社のひとつ)
  • 耶麻郡西会津町新郷戸豊州字沢田6313
  • 耶麻郡西会津町宝坂屋敷熊沢1601
  • 耶麻郡猪苗代町長田前田1216
  • 河沼郡会津坂下町塔寺大門1519
  • 河沼郡会津坂下町高寺平林253
  • 河沼郡柳津町大字大柳字上ノ山甲1319番ノ1
  • 須賀川市上小山田古寺60
  • 須賀川市畑田字後山1番(白山比賣神社)
  • 須賀川市袋田字岩根山1番(白山比咩神社)
  • 喜多方市関柴町下柴後田688
  • 喜多方市塩川町遠田字藤木52番
  • 喜多方市岩月町大字宮津字前谷地5038番(喜多方市岩月町宮津荒田とも表記)
  • 喜多方市岩月町大字橿野字台畑374
  • 喜多方市熱塩加納町米岡字元屋敷西丙146番
  • 喜多方市豊川町大字一井字白山社地2200番
  • 相馬郡飯舘村草野沢目木55
  • 東白川郡棚倉町流東山1
  • 西白河郡中島村松崎堂ノ入1(白山比め神社)
  • 伊達郡桑折町平沢上城
  • 伊達郡桑折町成田天上庵12
  • 南会津郡南会津町湯ノ花深沢山戊78
  • 白河市旭町1-210-4(白山姫神社)
  • 大沼郡会津美里町和田目丙1359番
  • 大沼郡金山町大字小栗山字四十刈1616番
  • 田村市船引町春山字戸之内408番(白山比咩神社)
  • 田村市船引町芦沢字上屋形267番(白山比咩神社)
  • 田村郡三春町大字貝山字宮ノ下269番地(白山比咩神社)
  • 石川郡浅川町大字浅川字荒町114(白山比咩神社)
  • 石川郡浅川町浅川城山85(白山比め神社)

太鼓店

  • 田中太鼓店 - 二本松市亀谷1丁目256 リビング田中由衛ロータリービル1F
  • 田中太鼓店 - 相馬市中村高池前1
  • 佐藤太鼓店 - いわき市平六町目1−1
  • 山崎・太鼓店 - 白河市旭町1丁目162
  • (株)川田太鼓工房 - 南会津郡南会津町永田堂前2254
  • 五十嵐幸太郎太鼓店 - 会津若松市川原町1-20

外部リンク

出典

  1. 本田豊『新版 部落史を歩く 非人系部落の研究』123頁
  2. 本田豊『部落史を歩く ルポ東北・北陸の被差別部落』76頁
  3. 本田豊『部落史を歩く ルポ東北・北陸の被差別部落』76頁
  4. 本田豊『部落史を歩く ルポ東北・北陸の被差別部落』76頁
  5. 『東日本の被差別部落』(明石書店)17頁
  6. 留岡幸助「特種部落と其人口」(『人道』69号所収、1911年刊。1907年調査)
  7. 内務省社会局「全国部落統計表」(内務省社会局『部落改善の概況』所収、1922年刊。1921年調査)
  8. 『部落問題・水平運動資料集成』第2巻392頁
  9. 厚生省よりGHQ民間情報教育局に提出された報告(『資料・占領期の部落問題』所収、1991年刊)
  10. 厚生省社会局「同和対策要望事項調査」(厚生省『同和行政の手引き』所収、1961年刊行。1958年調査)
  11. 内閣総理大臣官房審議室『全国同和地区実態調査結果』(1968年刊。1963年調査および1967年調査)
  12. 『解放新聞』1986年11月24日付のルポ「福島県の部落で」
  13. 本田豊『部落史を歩く ルポ東北・北陸の被差別部落』77頁
  14. 『部落』1966年4月号、東上高志「ルポ東北の部落」
  15. 本田豊『部落史を歩く ルポ東北・北陸の被差別部落』77頁
  16. 上原善広『日本の路地を旅する』文庫版
  17. 『実話ナックルズ』2010年3月号、上原善広「JDT全国の被差別部落を歩く」
  18. 東上高志『川端分館の頃』所収「東北の部落」
  19. 『新編会津風土記』
  20. 東上高志『川端分館の頃』所収「東北の部落」
  21. 東上高志『川端分館の頃』所収「東北の部落」
  22. 東上高志『川端分館の頃』所収「東北の部落」
  23. 東上高志『川端分館の頃』所収「東北の部落」
  24. 北宮諏方神社祭礼・・祭礼奉祝会 - 平成の名水ものがたり 喜多方
  25. 東上高志『川端分館の頃』所収「東北の部落」
  26. 東上高志『川端分館の頃』所収「東北の部落」
  27. 『日本映画俳優全集 男優編』(キネマ旬報社、1979年)142頁
  28. 『部落の歴史 東日本篇』209頁
  29. 『部落の歴史 東日本篇』209頁
  30. 本田豊『部落史を歩く ルポ東北・北陸の被差別部落』87頁
  31. 『部落の歴史 東日本篇』239-240頁
  32. 川元祥一による『解放新聞』1986年11月24日付のルポ「福島県の部落で」
  33. 『部落の歴史 東日本篇』203頁
  34. 野本武一「各地にふきでる組織の芽」(丸山友岐子『解放への飛翔』279-285頁)
  35. 沖田は1931年4月21日に大阪府の舳松部落で病死。婚約者は京都田中部落出身の長田秀子であった。北原泰作『賎民の後裔-わが屈辱と抵抗の半生-』222, 234頁による。
  36. 『部落問題事典』(部落解放研究所)77頁
  37. 『部落の歴史 東日本篇』204頁
  38. 『部落の歴史 東日本篇』205頁
  39. 『部落の歴史 東日本篇』210頁
  40. 大内寛隆「『ニ兎』を追う- 一教員の回想 -」
  41. https://archive.fo/zoKXt
  42. 『東日本の近世部落の具体像』382頁
  43. 『東日本の近世部落の具体像』384頁
  44. 『東日本の近世部落の具体像』373頁
  45. 『別冊東北学』第5号236頁、大内寛隆「近世陸奥国南部における被差別身分の実態」
  46. 『別冊東北学』第5号236頁、大内寛隆「近世陸奥国南部における被差別身分の実態」
  47. 『別冊東北学』第5号236-237頁、大内寛隆「近世陸奥国南部における被差別身分の実態」
  48. 『別冊東北学』第5号236-237頁、大内寛隆「近世陸奥国南部における被差別身分の実態」
  49. 『別冊東北学』第5号239-240頁、大内寛隆「近世陸奥国南部における被差別身分の実態」
  50. 『別冊東北学』第5号244頁、大内寛隆「近世陸奥国南部における被差別身分の実態」
  51. http://www.bll.gr.jp/siryositu/siryo-syutyo2012/news2012/news20121015-5.html
  52. 腰浜村穢多人口(「腰浜村差出帳」による)
    年次 家数
    元禄16(1703) 16 10 -
    明治元(1868) 30 34 9
  53. 『部落史ゆかりの地』(宮武利正、解放出版社、2006)
  54. 『部落問題・水平運動資料集成』補巻2、2089頁
  55. ただし代町という地名そのものは1878年の『寺社明細帳』に地元の白山神社の所在地として「岩代国信夫郡腰浜村字代町」と掲載されている。
  56. 『別冊東北学』第5号204頁、小剣生「思いでのまゝ」
  57. 『別冊東北学』第5号208頁、小剣生「思いでのまゝ」
  58. 『別冊東北学』第5号180頁、朝治武「悲しくも愛しき故郷」
  59. 『別冊東北学』第5号181頁、朝治武「悲しくも愛しき故郷」
  60. 2000年電話帳によると、福島県内には6件の栃木姓が散在している。その内訳は福島市 笹谷釜川原、福島市 飯坂町東坂下、福島市 笹木野由添、相馬郡小高町 西町、双葉郡浪江町 室原七社宮、南会津郡田島町 田部下原に各1件である。
  61. 『東日本の近世部落の具体像』396頁
  62. 上原善広『日本の路地を旅する』文春文庫版、360-366頁
  63. 東上高志『川端分館の頃』所収「東北の部落」
  64. 東上高志『川端分館の頃』所収「東北の部落」
  65. 上原善広『日本の路地を旅する』文春文庫版、368頁
  66. 上原善広『日本の路地を旅する』文春文庫版、368頁
  67. 上原善広『日本の路地を旅する』文春文庫版、368頁
  68. 『部落解放』1994年12月号、24頁
  69. 『辺縁の未解放部落史研究』(木下浩、柏書房、1986)
  70. 『日本映画俳優全集 男優編』(キネマ旬報社、1979年)142頁
  71. 『日本映画俳優全集 男優編』(キネマ旬報社、1979年)142頁
  72. 『角川日本地名大辞典』第7巻「福島県」
  73. 『全国同和地区実態調査抽出地区精密調査報告 農山漁村型』139-140頁
  74. 原田伴彦『日本封建制下の都市と社会』208ページ
  75. 上原善広『日本の路地を旅する』文春文庫版、367頁
  76. 旧・腰浜村の白山神社は「ジウが屋敷」内に祀られていた。『別冊東北学』第5号232頁、大内寛隆「近世陸奥国南部における被差別身分の実態」による。