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横須賀市

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域内同和地区

馬堀町

馬堀町
別名 馬堀[1]
現在地 馬堀町 3丁目の一部
旧地名 三浦郡 浦賀町 馬堀[2]
文献 全國部落調査(1934年)
施設
団体
人口 330(1934年)[3]
世帯数 6(1802年)
55(1934年)[4]
産業 主業/雑、副業/商業(1934年)[5]
『三浦郡神社明細帳』には、白山社信徒惣代として引本姓と高本姓が記載。2姓共に駅前通り沿いに分布。
引本姓2件、高本姓2件、由井姓6件、永井姓6件。2000年電話帳。
倒壊した白山神社周囲の墓地から推定される芝生の土着の姓は、川間姓、長川姓、浦島姓。『三浦郡神社明細帳』には、白山神社信徒惣代として、"川間仁平次"、"長川久兵衛"の名の記載がある。
川間姓は1丁目に1件、浦島姓は5丁目に1件。2000年電話帳。長川姓は旧地番38-8(現在の浦賀歯科医院の場所)にかつて1件。

概況

団体や行政の認識する地区は同町3丁目11~19周辺だが、実際には旧海岸線に沿った馬堀海岸駅前の一方通行の通り沿いが元々の地区である。墓地や白山社(旧大津村字新富)跡地は京浜急行の線路や横浜横須賀道路により分断されている。

歴史

下古沢の太郎右衛門の配下で、小組頭名は"惣左衛門"。

林地区からの流入も認められるが、"五五軒"の数値は非常に多い。

又、馬堀とは別に、浦賀1丁目にあった地区名は"芝生(しぼう)"。1802年は5戸。下古沢の太郎右衛門の配下で、小組頭名は"弥右衛門"。1852年(ペリー来航の前年)に小屋頭"久兵衛"は太郎右衛門の手下を離れ、弾左衛門の直支配になったという。

浦賀奉行所開設(1720年)に伴い、"川間(現西浦賀5,6丁目周辺)"から1721年に移転してきた、との事。昭和の初め頃で30~40戸、人口250~260人余(明治42年『浦賀誌録』加茂捨三郎元善)。奉行所関係で皮革も扱っていたが、その他は農漁業、日雇い、雑業であった。

『浦島家文書』記載にされる、中郡から浦賀に移った後北条氏の皮作触頭である浦島彦右衛門や、『新編相模国風土記稿』三浦郡西浦賀御蔵の項に記載の大庄屋、浦島清五郎が、この地の浦島姓と関連するのかは不明。

西浦賀2丁目(旧田中町)には「浦島稲荷(西浦賀2-‎14南側)」があり、裏手には"文化四年(1807)"の銘がある比較的古い浦嶋家の墓地「西浦賀浦嶋墓地」もある。又、隣接する常福寺の墓地には、昭和~平成23年にかけての埋葬歴を刻んだ新しい墓が1基ある。但し、同町には現在浦島姓は全く見当たらない。

「西浦賀浦嶋墓地」の敷地内には、少し外れに"斎藤家"名義の墓群(古いもので寛政十一年(1799)、最近のものでは平成)がある。

別名 東町[6]
現在地 林 2丁目の一部
旧地名 三浦郡 武山村 林[7]
文献 全國部落調査(1934年)
施設
団体
人口 157(1934年)[8]
世帯数 13(1802年)
32(1934年)[9]
産業 主業/雑、副業/農業(1934年)[10]
小林姓は林2丁目に7件、武ハイムA棟に1件。高本姓は武ハイムA棟に3件、林3丁目、太田和1丁目(林2丁目の隣)に各1件、市内では他に馬堀町3丁目に2件、浦賀5丁目に1件。引本姓は林2丁目、太田和1丁目に各1件、市内では他に野比2丁目に1件、馬堀3丁目に2件。2000年電話帳。

概況

歴史

下古沢の太郎右衛門の配下で、小組頭名は"市右衛門"。

1933年位に"新町"を"東町"と改称。1942年、横須賀第二海兵団の施設を作る際に地区の大部分の土地を接収され、7割近くの住民が分散、且つ残った土地にも密集し、やがて住宅が老朽化した。その後、林2丁目の解同関係者による住環境改善要求に基づき、1987年に建設されたのが「市営武ハイムA棟(武1-21−21)」であり[47]、25戸の住民は全て"解同関係者"である。[48]。同住宅に転居した住民の跡地は「林2丁目第2公園(林2-11)」で、公園に隣接した周辺が、現在僅かに住民が残る同地区の中心である。武ポンプ場(林2-9-11)は、1974年の台風8号による大水害を契機に同和対策の一環として建設されている。

又、隣接する太田和町からも武ハイムA棟に少数が入居した。1868年頃の太田和村明細帳では「穢多三軒」。

野比

野比
別名 中村[11]
現在地 野比 2丁目の一部
旧地名 三浦郡 北下浦村 野比[12]
文献 全國部落調査(1934年)
施設
団体
人口 64(1934年)[13]
世帯数 13(1933年)
11(1934年)[14]
産業 職工7戸(1933年)
主業/農業、副業/雑(1934年)[15]

概況

野比2-325-22に野比中村公園が、野比 2-16-13に野比中村町内会館がある。

歴史

小頭・小組頭が置かれたという記録は無い。

元名主である堀越家所蔵文書目録の中に『穢多宗門人別改帳 相模国三浦郡野比村』があるが未翻刻。1853年(浦賀にペリー来航の年)に田浦家より、この地区を支配していた下古沢の小頭太郎右衛門御役所に宛てた文書『口論始末書 父母殺害一件吟味願』が残っている(翌1854年には『殺害一件済口証文』同所に提出)。

又、40年ほど遡る1811年には天然理心流の免許状が田浦家に出されている。

出典