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横浜市

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域内同和地区

小机町

小机町
別名 根崎[1]
現在地 港北区 小机町、鳥山町の一部
旧地名 横浜市 神奈川区 小机町[2]
文献 全國部落調査(1934年)
施設
団体
人口 154(1934年)[3]
世帯数 26(1887年頃)
22(1934年)[4]
産業 主業/商業、副業/雑(1934年)[5]
東町町内会館前の墓地の周辺である小机町1400番台と2500番台、及び鳥山町900番台に、中臣姓7件、原橋姓6件、窪倉姓(下作延の希少姓)2件、四家姓(池辺の希少姓)1件、坂本姓1件、山田姓3件、清水姓2件、小澤(沢)姓2件、宮本姓2件、矢嶋姓0件。2000年電話帳。又、2500-1の「宝琳堂」の尼野姓1件は下作延の希少姓。

概況

隣町である鳥山町との境界に位置する「東町町内会館(小机町1460)」前の墓地には土着の姓と他地区からの流入姓が見受けられる(但し、墓地は整備されており、"一般"も交えて埋葬されている可能性がある)。

神本姓13件(2000年電話帳)は小机城址周辺の農地と駅前ビルを2棟を持ち、全國部落調査記載の「主業/商業、副業/雑」の対象としては考え難い。この地区に関する本田豊の著書の記載内容は、地区の住民と直接会話したものではなく、団体や行政関係者の回想を基にしている為、改めて検証が必要。

歴史

1850年の文書では、小頭名は"仁左衛門"。

六浦

六浦
別名 髙谷[6]
現在地 金沢区 六浦東 2丁目の一部
旧地名 久良岐郡 六浦荘村 三分[7]
文献 全國部落調査(1934年)
施設
団体
人口 276(1934年)[8]
世帯数 7(1802年)
40(1887年頃)
49(1934年)[9]
産業 主業/職工、副業/雑(1934年)[10]
釜利谷南に残る姓は山田姓(前述の落武者の三姓とは不一致だが"子孫"との事)。又、三姓の内の一姓は"一般"として米倉氏に仕えた。長谷川姓、中村姓、山田姓が中心姓。又、白山神社鳥居の氏子名に中野姓。

概況

高谷町内会館がある。中心部に白山神社。集落内傾斜地に専用墓地がある。

歴史

下古沢の太郎右衛門の配下で、小組頭名は"九郎右衛門"。

六浦地区は釜利谷南(豊臣氏遺臣三名の落武者伝説がある)の白山道周辺から近世初期位に現在地へ移転して来たと言われている。

現在の横浜市金沢区一帯は、江戸時代には米倉藩とか金沢藩、六浦藩などと呼ばれていた。この米倉藩の家臣でK氏という者があった。K氏の先祖は大坂夏の陣(一六一五年)のとき、豊臣方の武将として合戦に参加、徳川方に敗れて敗走。六浦の地へ隠れ住んだ。このとき、共に落ち延びてきた者は中村九郎左衛門が頭で、その家臣としてつき従ってきたのが、長谷川助左衛門とK氏の先祖の三人だった[11]

Kは白山神社の隣に住む窪田の可能性がある[12]。部落解放同盟六浦支部にも窪田姓の支部員がいる[13]

十日市場町

十日市場町
別名 坂下[14]
現在地 緑区 十日市場町
旧地名 都筑郡 新治村 十日市場 坂下[15]
文献 全國部落調査(1934年)
施設
団体
人口 18(1934年)[16]
世帯数 5(1887年頃)
5(1934年)[17]
産業 主業/雑、副業/農業(1934年)[18]
同町1077番(解同神奈川県連横浜市協の酒井巳代司)、1087番にも酒井姓1件、1086番-1号にアパート「酒井ハイツ」、他に町内に3件ある。2000年電話帳。但し、同姓が"土着"の該当姓かどうかは未検証(「元小頭」は別姓の可能性が残っている)。

概況

"泣坂"で有名だが、地区の位置には関連は無い。"坂下"は、隣町の新治町との境の崖下、恩田川を渡る坂下橋の周辺を指す古い地名で、現在の地番としては1076~1097番辺りに当たる。

歴史

1850年の文書では小頭名は"甚左衛門"。


池辺町

池辺町
別名 池辺[19]
現在地 都筑区 池辺町
旧地名 都筑郡 川和町 池辺[20]
文献 全國部落調査(1934年)
施設
団体
人口 67(1934年)[21]
世帯数 5(1887年頃)
6(1934年)[22]
産業 主業/農業(1934年)[23]
四家姓6件。2000年電話帳。

概況

地名のフリガナは"イコノベ"。池辺町字星谷(現在の池辺町1587~1721番、及び1835~2046番に当たる)。

歴史

1887年頃は5戸。

助左衛門文書』によれば、小頭名は"星ヶ谷村 三左衛門"(何故か"多磨郡"とされている)。

上瀬谷町

上瀬谷町
別名 竹村[24]
現在地 瀬谷区 竹村町、上瀬谷町
旧地名 鎌倉郡 瀬谷村 上瀬谷[25]
文献 全國部落調査(1934年)
施設
団体
人口 120(1934年)[26]
世帯数 9(1930~44年 天保年間)
45(1887年頃)
20(1920年)
22(1934年)[27]
17(1938年青和会調査)
産業 主業/農業、副業/雑(1934年)[28]
農業が11戸(1938年青和会調査)
前田姓は竹村町に1件、上瀬谷町に3件、瀬谷に4件、中屋敷に2件。水村姓は竹村町に6件、他に瀬谷、上瀬谷町に各1件。2000年電話帳。

概況

地区の中央にあった墓地は妙光寺(瀬谷区上瀬谷町8−3)に移転済。又、白山社は数回移転しており、現在は竹村町内会館前の県道を挟んだ向かい。棟札には"宝徳3年(1451)2月15日 三軒村小頭三九郎の勧請"とある。白山社の整備や竹村町公園は同和対策の一環。

歴史

青和会によると、住宅密集を解消するために昭和初期この地区から上瀬谷町に10戸ほど移転したとのこと。

小頭名は"前田屋吉左衛門(後に、清十郎)"。1877年の『内国勧業博覧会出品目録』に、鞦(しりがい。馬具の一つ)の出品者として"前田清十郎"、その材料(皮)の生産者として"前田九十郎"の名が確認できる。

出典