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朝田善之助

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朝田善之助(Zennosuke Asada)

(死去) 元執行委員長

住所は朝田善之助が自著『差別と闘いつづけて 部落解放運動五十年』(朝田善之助、朝日新聞社、1969)でカミングアウトしている。

http://archive.fo/qYcj6

住所・電話番号は『NTT電話帳』にも掲載されている。

http://archive.fo/70hnN

朝田善之助は「全国部落調査」の実施を発案した一人である。(部落解放同盟による部落差別を検証する参照。)

朝田善之助みずからが以下のように部落を暴露している。[1]

生まれたところは京都府愛宕(おたぎ)郡田中村字西田中。田中村には本村の東田中のほかに、百万遍、関田、上柳、大堰、高野、それに西田中と7つの字があった。この西田中がいわゆる部落で、ずっと古くは川崎村といった。いまは京都市左京区田中馬場町という


朝田 善之助(あさだ ぜんのすけ、1902年(明治35年)5月25日戸籍上は7月4日[1] - 1983年(昭和58年)4月29日)は日本の部落解放運動家、会社経営者。

生涯

京都府愛宕郡田中村字西田中(現在の京都市左京区田中馬場町)で生まれた[1]。父は幾之助、母はみゑ、長兄は幾松、次兄は伊助といった[1]。朝田が生まれた西田中は被差別部落で、古くは川崎村といった[1]。1908年、養正小学校へはいった[1]。1914年、小学校を卒業して寺町五条下ルの篠本靴店へでっち奉公へ出た[1]。

1918年、米騒動で社会運動に目覚める。1922年、全国水平社の創立大会に参加。

1928年1月、地元の西田中で「あの娘すきや、ぜひ嫁にもらいたい」という知人男性の希望を受けて拉致行為に加担し、警察に連絡され、正月3日から5日間引っぱられた[2]。このとき朝田らは、娘が母親と連れ立って風呂に行くところを集団で待ち伏せ、やってきたところを羽織を脱がせて頭からかぶせ、集団で担いで行ったが、当の娘が暴れて逃げたため未遂に終わったという[2]。同年、三・一五事件の後、全国水平社本部の再建にあたって、1940年まで本部幹部を務める。

1931年、全国水平社解消意見を提出し、物議をかもす。

1938年から京都市役所に勤務。

戦時中は松本治一郎らの全国水平社主流派に抗し、1940年8月、北原泰作たちと共に時局便乗の部落厚生皇民運動を組織して全国水平社の解消を企てたため、全国水平社から除名処分を受ける。

戦後は部落解放全国委員会結成に参加し、同委員会京都府連合会を組織、委員長に就任。1947年ごろ日本共産党に入り、同党の部落解放全国委員会全国フラクションのキャップや京都府連委員長を務めたが、みずからが経営する会社「京都製靴」の内紛に関連して1949年1月に離党[3]。

1951年、朝鮮人部落の生活を差別的に描いた小説「特殊部落」を部落差別を興味本位で取り上げた差別小説だと、市当局を追及するよう旧知の市幹部からの依頼を受け指導したオールロマンス闘争をきっかけに、行政闘争路線を活発化させた。

1965年、同和対策審議会答申への対応に関する意見の食い違い、及び松本治一郎の参議院選挙に関する対立から、松本委員長、田中織之進書記長ら社会党系幹部らと共産党系幹部との関係が悪化し、社会党系幹部は共産党系運動論に対置する新たなよりどころとして朝田に接近し、同年の大会運動方針案起草を担当。第20回大会は朝田ら主導の運動方針案を可決し、役員改選では殆どの共産党員を中央執行委員から解任、社会党系幹部と朝田らが新たな主流派を形成した。

この間の事情について、全解連大阪府連の生みの親の一人である和島為太郎らは

    「答申はわしら(部落民)の問題を部落と一般というかたちでとらえている。排外主義が底に流れてんねや。それに便乗して、わしらと部落外を分裂させるために同和対策を打ち出したんや。わしは、警察がわしらを懐柔しながら、一般との分裂をはかるために肚に一物ある職務執行をしてるいうことがようわかった。自民党が暴力学生を泳がせて、反共攻撃と民主勢力の分断に利用したのは安保闘争のときやったが、これと同じ期待を政府は朝田(善之助)君らに懸けてんねや。そこにわしはこの問題の謎を解く鍵がある思う」

    「部落の要求をある程度受け入れながら、『解同』をいっそう右寄りなものにつくりかえていって、解放運動全体を官制のものにしようと狙てんねや」

と述べていたとされる[4]。また、北原泰作によると「共産党とさえ手を切ってくれるなら同和対策に金はいくらでも出そう」という誘いがさまざまな筋からあり、北原は断ったが、これに乗ってしまったのが朝田善之助だった、ともいう[4]。

同時に、朝田が委員長を務めていた京都府連内部では、多数派であった共産党系幹部と朝田らとの対立が深まり、同年末から翌年にかけて分裂、府連書記局が設置されていた会館の帰属をめぐって、部落問題研究所との間に紛争が発生した(文化厚生会館事件)。

1967年、前年に死去した松本の後を承け、部落解放同盟中央本部の第2代中央執行委員長に就任。

1969年、共産党の部落問題に関する見解を集大成した形で発刊された党農民漁民部編『今日の部落問題』では、朝田の理論的主張を北原の主張とともに、「部落解放同盟内の社会民主主義者による日和見主義理論」として批判、朝田ら解放同盟執行部はこれらの主張を同盟に対する誹謗中傷と看做して、同書発刊直後に開かれた第24回大会では、来賓として出席した共産党代表を紹介だけにとどめ祝辞を読ませないとする対抗措置をとった。

大会の後間もなく発生した矢田事件で共産党員教師が解放同盟矢田支部員を刑事告訴したのを契機に共産党との対立が表面化、共産党に呼応する動きを見せた同盟員に対する統制処分を主導した。

1971年には部落解放同盟全国大会で部落差別に関する3つのテーゼを定式化。これは朝田理論と呼ばれ、部落解放理論として永らく主導的な役割を果たした。

しかし1971年頃から、朝田による地元京都府連の私物化と利権あさりが原因で紛争が生じ、1973年には、衆議院議員会館の玄関で部落解放同盟中央本部の反朝田派に暴行され、病院へかつぎこまれる事件が発生した[5]。1974年には朝田を委員長から解任する動きもあったが、参院選の思惑もからみ、もう1期だけ委員長をやらせてから引退させることになった[5]。

1975年、部落解放同盟内部の派閥抗争により中央執行委員を解任され、さらに部落解放同盟京都府連合会の内紛によって部落解放同盟から排除される。部落解放同盟の内部では「あの人は自分の言うこと聞かなんだら分配しないんやから。で、ついでに自分の腹も肥やしたから、最終的にあの人は民主化闘争という名をもって引きずり下ろされた」[6]と、いわれている。以後は、改良住宅家賃値上げ反対同盟を独自に結成したが、部落解放運動の主流に復帰することはできなかった。

1983年、死去。部落解放同盟は同盟葬を執行した。

著書に『差別と闘いつづけて』(1969年)がある。

孫の朝田善三(よしみ)は京都ビルメンテナンス協会会長。

人物

えせ同和行為の源流

1946年4月、京都市田中地区の皮革業関係者を中心に京都製靴株式会社が設立され、社長に朝田が就任した。行政の全面的な支援を受け、軍需物資の払い下げを受けつつ、同和対策事業の一環として設立された会社である。続いて、1946年12月、朝田は日本政府の補助金30万円を受けて京都履物工業共同作業所を設立し代表者となる。また履物工業振興会社、京都皮革販売会社を設立し、それぞれ社長となった。

しかし朝田による非民主的な経営や会社の私物化は地元の田中地区から猛反発を受け、たちまち経営困難に陥った。結局、1949年には京都製靴をはじめとする関連諸会社は解散された。その後、諸会社の機械、器具・資材・製品のすべてが朝田個人の財産になってしまったと木村京太郎は『道ひとすじ』(部落問題研究所)で語っている。

行政が部落解放のために提供した資産を運動体幹部が私してしまう、このような行為がえせ同和行為の源流であると評する者もいる[7]。

「差別者をつくるのは簡単だ」

若いころ朝田に師事していた東上高志によると、朝田は常々「差別者をつくるのは簡単だ」と豪語していたという[8]。東上は朝田と共に大阪の朝日新聞社まで歩いていた時、「八百八橋」の一つである「四つ橋」にさしかかり、「東上君、あれを読んでみ」と朝田に言われた[8]。「四つ橋」と東上が答えると、朝田は「お前、今、四つ(被差別部落民の賤称)言うて差別したやないか」と非難してみせた[8]。

このような強引な難癖の付け方は、矢田事件における「木下挨拶状」への糾弾の際にも応用された、と東上は述べている[8]。

人柄

多数の部落解放運動家を育成し、朝田学校と呼ばれる流派を率いた反面、人間的には偏狭で好悪の情が強く、部落解放同盟内部にも敵が多く、指導者の器ではないとも評された[5]。

田中水平社の羽根田兼道は、1934年、西園寺公望暗殺謀略の容疑で京都府警に逮捕されたが、やや遅れて同じ警察署に逮捕留置された朝田善之助から「武器は挙がってへん、ガンバレ」と記した便所紙を留置場の居室に投げ込まれた[9]。羽根田はこれを口の中に呑み込んで処分した[9]。

その翌日、羽根田は川端署に送られ、朝田は中立売署に送られた[9]。川端署で羽根田は、取調官から「朝田が白状した。武器は挙がってへん、ガンバレ、というてお前に連絡したとな」と過酷な拷問を受けた[9]。「そのときほどわしは頭に血が上ったことはない。あいつは何もかもわしにかぶせて、自分は中立売署でお客さんみたいにかまえて、のほほんとしておったんや」と、羽根田は回想している[9]。

戦前戦後を通じて朝田と交際があった山本利平は、朝田の人間的な特徴を以下のように記している[10]。

    初歩的な理論を学習せず、経験と勘で物を言う。その際には河上肇やマルクスなどの言葉を引用し、博識ぶる。しかし実際には独自の理論は皆無であり、みずからの考えを理論的に文章に書く力がない。このため「記録係」として北原泰作の助けを借りなければならなかった。
    みずからの思いつきや借り物の理論を絶対化し、それをとことん人に押しつける。自分こそが最高の権威者であり、それを教えてやろうという尊大な人間。学者や政治家と議論をしても「お前さんたちは部落問題や部落解放運動を知らないのだ」というのが最初で最後の結論である。

朝田に師事した岡映は「朝田の善ちゃんも、たしかにえい男や、だがどうして彼は党へ入らんのか。不思議に思うのは、逮捕されても、警察からすぐ出されることだ。俺に言わせると、時勢とはいえ、あまりにもうまく世の中を泳ぎすぎるように思えてならない」という脇坂六郎(非合法時代の日本共産党の同志)の言葉を引用しつつ「『朝善』の言動には、不審なこと、疑惑を抱かせることが少なからずあった」と述べ、朝田が官憲のスパイだった可能性を示唆している[11]。

脚注

    ^ a b c d e f 『新版 差別と闘いつづけて』pp3-20。
    ^ a b 朝田善之助『新版 差別と闘いつづけて』46-47頁
    ^ 朝田善之助『新版 差別と闘いつづけて』164-165頁
    ^ a b 三谷秀治『火の鎖』p.438(草土文化、1985年)
    ^ a b c 中西義雄『部落解放への新しい流れ』p.141
    ^ 『創』1995年2月号「匿名座談会 部落解放同盟のマスコミが書けなかった内部事情」p.107
    ^ 中原京三『追跡・えせ同和行為』p.171-174(部落問題研究所、1988年)
    ^ a b c d 東上高志『川端分館の頃』p.44-45。
    ^ a b c d e 『水平運動の無名戦士』126-128頁
    ^ 『気骨の人・山本利平』182-184頁
    ^ 『荊冠記』第二部「黎明」57-58頁

参考文献

    朝田善之助『新版 差別と闘いつづけて』朝日新聞社、1979年

[2]

朝田理論

朝田理論(あさだりろん)とは、部落解放同盟中央本部の第2代中央執行委員であった朝田善之助が確立させた部落解放理論。朝田テーゼ、朝田ドクトリンとも呼ばれる。

1956年に部落解放同盟第11回大会で提出された「差別に対する命題」すなわち「生活上における一切の不利な条件…日々生起する一切の問題を…差別として評価しなければならない」は、その非科学性から多数の代議員の反対を受けて保留になったが[1]、この発想は、地方自治体の行政を「差別行政」であるとして攻撃・糾弾し、同和対策事業予算を取れるだけ取るのに便利であったため[1]、1961年の第16回大会で打ち出された「差別の本質」などで復活し、1960年代前半、日本共産党系列の大衆運動の動員に収斂しようとする当時の解放同盟中央の運動論に対抗する形で再三にわたり意見書を提出する中で徐々に形を整えていった。

当初、朝田は一時的にマルクス・レーニン主義の理論を吸収しようと努め、日本共産党を心情的に支持する姿勢を示していた[2]。このため、部落解放同盟内部の共産党員は早くから朝田理論の誤りを指摘しつつも朝田と共存していた[2]。

ところが1960年代半ば、共産党系幹部と関係が悪化した社会党系幹部は新たな運動論のよりどころとして朝田に接近、その理論的主張は一転して解放同盟の主流的立場となった。

それと同時に朝田は完全な反共主義に転じ、共産党系活動家を部落解放同盟から追放。以後、朝田理論は共産党系活動家から公然と批判を受けるようになり、1969年発刊の共産党農民漁民部編『今日の部落問題』では、朝田の主張が「社会民主主義者による解放同盟内の日和見主義理論」の一つとして紹介されるとともに、排外主義的傾向が強いと全面的に批判された。

1965年、共産党系活動家の岡映は汐文社より『入門部落解放』を上梓。岡は朝田理論を、「うけとめ方によっては、きわめて有害のものであって、部落の孤立化を深めることになる」として批判した。

1969年、矢田事件で決定的となった解放同盟と共産党との対立、双方からの非難の応酬の中で「三つの命題」として整序され、1971年の部落解放同盟全国大会で定式化された。

内容
前提

    「ある言動が差別にあたるかどうかは、その痛みを知っている被差別者にしかわからない」[3]
    「日常生起する問題で、部落にとって、部落民にとって不利益なことは一切差別である」(部落解放同盟第12回大会)

部落差別の3つの命題

    「部落差別の本質は、部落民は差別によって主要な生産関係から除外されていることにある」
    「部落差別の社会的存在意義は、部落民に労働市場の底辺を支えさせ、一般労働者、勤労人民の低賃金、低生活のしずめとしての役割、部落民と労働者・勤労人民と対立させる分割支配の役割にある」
    「社会意識としての部落差別観念は、自己が意識するとしないとにかかわらず、客観的には空気を吸うように労働者・勤労人民の意識に入り込んでいる」[4][5]

肯定的評価

部落解放同盟書記長をつとめた小森龍邦は、この朝田理論を「長い間、差別されていること自体、部落の責任だと思っていたものに、勇気と自信を与え、差別の本質的認識を前進させるために、運動の当初必要とされた、この命題は運動の最後まで必要とされるものである」と讃えている[6]。

否定的評価

朝田理論に基づく恣意的な差別認定の乱発については、当初から「箸が転んでも差別か」「パチンコに負けるのも、郵便ポストが赤いのも差別か」と揶揄されていた[7][8]。これに対して朝田は「その通りや」と笑って答え、批判を受け入れようとしなかった[9]。かつて朝田善之助に師事していた東上高志によると、朝田は常々「差別者をつくるのは簡単だ」と豪語していたという[10]。東上は朝田と共に大阪の朝日新聞社まで歩いていた時、「八百八橋」の一つである「四つ橋」にさしかかり、「東上君、あれを読んでみ」と朝田に言われた[10]。「四つ橋」と東上が答えると、朝田は「お前、今、四つ(被差別部落民の賤称)言うて差別したやないか」と非難してみせた[10]。このような強引な難癖の付け方は、矢田事件における「木下挨拶状」への糾弾の際にも応用された、と東上は述べている[10]。

朝田は自らの理論を「実践にすぐ役立つ」[11]と豪語していたが、全解連の中西義雄は、朝田理論を「理論、イデオロギーでもなんでもなく、暴力団が市民にいんねんを吹っかけておどしとるのと、同じ論法にすぎない」と論評している[12]。

岡映によると、岡山県江見町では居酒屋で飲食した5-6名の部落民が金の持ち合わせがないことに気付き、とっさの対応策として居酒屋の主人の「差別発言」をでっち上げ、銚子やコップを割る、椅子を振り回すなど暴れられるだけ暴れ、酒食料を無料にさせ、なおかつ居酒屋の主人を謝らせ、金一封を巻き上げて自慢していたことがある[13]。「後年、『朝田理論』として有名になった『部落に生起する一切の部落と部落民にとっての不利益な問題は、差別である』とする定義づけに、私がどうしても賛成できなかったのは、『朝田理論』の『実践的な原形』ともいえる江見の若衆たちの話を聞かされていたからである」[13]と岡は述べている。

部落民にとって不利なことを全て差別と見なした結果、「僕が勉強でけへんのは差別の結果なんや」と教師に主張する同和地区出身の小学生も現れた[14]。

部落解放同盟出身で、のち対立団体に転じた岡映は朝田理論を「唯利的巧理論」と呼び、海原壱一の「海原御殿」を実例にあげて「金儲けしたくば、朝田派にゆけ」と皮肉っている[15]。同和対策事業で潤った朝田派幹部らは「朝田財閥」と呼ばれた[15]。
「浅田満」および「川口正志」も参照

また、朝田派には同族意識論と呼ばれるものがあった[16]。この同族意識とは、水平社の初期にも問題にされたもので、部落外のものは労働者であっても差別者とみなし、部落の者はたとえ資本家や富豪でもみな兄弟とみなす立場であった[16]。この考え方は、階級的連帯を否定する排他的・閉鎖的な部落排外主義として批判された[16]。

松沢呉一は朝田理論を以下のように批判している。

    既存の差別反対運動の中に、当事者が唯一絶対の判定者だって考え方が非常に根強くあります。もう十何年前に『同和はこわい考』(阿吽社、1987年)っていう本が出て、著者の藤田敬一さんは二つの思い込みに対して疑問を呈してました。一つは、【ある言動が差別にあたるかどうかは、その痛みを知っている被差別者にしかわからない】、もう一つが、【日常部落に生起する部落にとって、部落民にとって不利益な問題は一切差別である】(同書57頁)というものです。これに対して藤田さんが異議を唱えたわけです。『週刊金曜日』の「性と人権」の中でも、「差別された者にしか痛みはわからない」といった言葉はずいぶん出てますよね。これは差別された者は間違いをしないっていう前提で成立する話じゃないですか。これに対して、抗議された側は、反論のしようがないわけです。つまり、議論を拒絶することでしかないんです。この発想は、差別されたと思った人は「被差別者」というグループに属し、彼らが差別した側と見なした人は「差別者」というグループに属し、差別という事象を判定する権限は「被差別者」のグループにしかないということですから、実は差別の構造の逆転なんです。どのグループに属するかの属性だけで、その発言が決定されてしまうんですから。[17]

「対人論証」も参照
部落排外主義をめぐって

岐阜大学の藤田敬一はかつて部落解放同盟の運動に参加したものの、狭山同盟休校に異論を唱えた折[18]、部落出身ではないために「部落民でない君に何がわかるか。わかるはずがない」と疎外され、差別者扱いされて運動を離れた[19]。「体験、立場、資格の固定化、絶対化はときに奇妙な倒錯現象をひきおこす。自分は部落外の人間だと思っていた人が実は祖父母のどちらかが被差別部落出身であることがわかって両手をあげて喜んだという話が十数年前にあった。彼にしてみれば、拝跪する側から拝跪される側への変身であり、ある種の被抑圧感、劣等感からの解放だったのだろう」と、藤田は記している[20]。

藤田によると、「ある言動が差別にあたるかどうかは、その痛みを知っている被差別者にしかわからない」「日常部落に生起する、部落にとって、部落民にとって不利益な問題は一切差別である」という「差別判断の資格と基準」が、「関係の固定化と対話の途切れ」を生んでおり、「被差別者」自身が引き受けるべき責任まで他人や世間に転嫁する態度を生んでいるという[19]。これに対し部落解放同盟中央本部は1987年6月の第44回全国大会で藤田を名指しで非難し、「差別思想の持ち主」と決めつけて指弾した[18][21]。

一方、京都産業大学の灘本昌久は被差別部落民を祖先に持ちつつ当人は被差別部落出身ではなかったが、部落解放運動の内部では部落民として扱われ、「部落解放運動をやる上では、部落出身であるというお墨付きは非常に有効でして、運動の中では非常に発言権を認められることになった」[22]、「私が今まで、部落解放運動の中で自由に発言し、部落解放同盟に対してはっきり批判的なことを言っても、それほど重大事には至らなかったが、それは「部落民」の看板があったことにもおおいに助けられていたと思う。これが一般の人で同じような発言をしていたら、たちどころに「差別発言」として、問題視され、糾弾されていたに違いない。部落外からのまっとうな批判に対して、 部落解放運動が「差別者」のレッテルを貼って、口を封じ、職を奪ったり社会的に抹殺した例は枚挙にいとまがないほどである」[23]と述べている。

水平社博物館館長の守安敏司の妻は高校教師であったが、部落解放奨学生の合宿で相部屋になった部落出身の女子生徒に「集合遅れるわよ。鏡を見るのが好きね」と声をかけたところ、これを部落差別発言と曲解され、十数名の奨学生から深夜2時まで糾弾された[24]。しかし、守安の妻もまた被差別部落出身であることが判明した途端に当の女子生徒から「ごめんね。先生も苦しい思いをしてきたんだね」と謝罪を受け、へたり込んでしまった[24]。守安の妻は「怒りと批判の対象ですら、同じ部落民とわかった途端に皆兄弟姉妹…こんなものが優しさと温もりなのか? 部落解放運動の、怒りと批判の矛先にあるものは、一体ぜんたい何なのか」と疑問を感じたという[24]。

1970年代には中学校3年生用の同和副読本『友だち』に、以下の記述が登場した[25]。

    結婚は、お互いが好きであればそれでよいと私も思った、でも、生活には社会があるの、差別は結婚によって解決したりはしないのよ、本当にその人好きやったら一緒になったらあかん。

この記述は、1976年2月開会の第154回兵庫県議会で県議の古賀哲夫から「部落住民は部落外住民と結婚すべきではないなどという特殊な理論である」と批判を受けて削除された[25]。

1973年7月24日から7月26日、同年8月11日に兵庫県立八鹿高等学校の部落研の生徒を対象に行われた合宿学習会では、部落解放同盟兵庫県連青年部などが「部落のもんでもないもんがなんで部落研をやるんか」と、部落問題を扱うのは部落民の専売特許であるとの見解を示した[26]。部落研のメンバーである小児麻痺の女生徒が「いま聞いていたら部落だけが差別されてて、その他のはどうでもいいみたいに聞こえた」と違和感を表明すると、「部落の立場とアンタの場合は違うやろ。身体障害はアンタ一代限り。苦しみはアンタだけで終わるやろ」と被差別者同士の間に序列を作られた[26]。このほか、部落解放同盟兵庫県連から、部落出身生徒とそれ以外の生徒では授業を分けろと要求された教師もいた[26]。

朝田理論の本質は「部落民以外は全て差別者」と要約されることがあるが、部落解放同盟はこのような発言の存在を否定し、「日共の差別デマ宣伝」であると主張し、1976年3月の部落解放同盟大会方針でも同じことを言っている[27]。しかし、対立団体の中西義雄はこれに反論し、部落解放同盟が

    「階級的搾取の一形態として差別が厳然と存在し、この差別社会のなかでは、個人は、とくべつ意識することなしに、差別社会のしくみにしばられて、差別観念を持たされている。日本における封建的身分に直接の起源をもつ部落差別はこのようにして日本資本主義のなかで社会意識として個々人をとらえている」[28]

と、別の言い方で同じ意味のことを書いていると指摘[27]。さらに、朝田が部落外の人民に対して「差別する側に生まれている」[29]ことを自覚するよう求め、「差別意識」[29]をもつ「自己と闘い、社会と闘う」ことを要求している[29]、とも指摘[30]。部落解放同盟の主張を「『解同』が反動支配勢力ではなく、『労働者及び一般勤労人民』を『差別観念』の持ち主として敵視した、すでにきびしく批判されて破産している『命題』をとりつくろうため」の詭弁である、と批判している[27]。

「部落民以外は差別者」論の起源

部落解放同盟長野県連委員長の山崎翁助は

    大正11年、全国水平社創立当時は「部落民以外は差別者である」という方針をうちだし、「糾弾」を武器として戦略を強めてきましたが、(後略)

と記している[31]。

この記述が正しいとすると、「部落民以外は差別者」論は朝田理論の登場以前から全国水平社に存在したものといえる。

関連項目

    国民融合論

関連文献

    中西義雄『部落解放への新しい流れ』p.291-332
    「赤旗」1969年9月7日付「部落解放運動を誤らせる『朝田理論』を批判する」
    灘本昌久「不利益=差別の再検討」(こぺる編集部編『部落の過去・現在・そして…』阿吽社、1991年)

脚注

    ^ a b 中西義雄『部落解放への新しい流れ』p.207
    ^ a b 中西義雄『部落解放への新しい流れ』p.292
    ^ 藤田敬一『同和はこわい考: 地対協を批判する』57頁
    ^ 『解放新聞』1969年10月5日付。
    ^ 朝田善之助『差別と闘いつづけて』
    ^ 『こぺる』115号、p.9。
    ^ 「箸が転んでも差別」の悪夢 | マリードフットノート
    ^ 藤田敬一『同和はこわい考』p.70
    ^ 部落解放同盟中央本部『上杉佐一郎伝』210頁
    ^ a b c d 東上高志『川端分館の頃』p.44-45。
    ^ 『差別と闘いつづけて』
    ^ 中西義雄『部落解放への新しい流れ』p.77
    ^ a b 『荊冠記』第二部「黎明」217-218頁
    ^ 藤田敬一『同和はこわい考』p.67
    ^ a b 兵庫人権問題研究所編「今、あらためて八鹿髙校事件の真実を世に問う : 一般社団法人兵庫人権問題研究所開所40周年記念 : 「八鹿高校事件」40周年」(兵庫人権問題研究所, 2014)p.259
    ^ a b c 中西義雄『部落解放への新しい流れ』p.251-252
    ^ 『「オカマ」は差別か 『週刊金曜日』の「差別表現」事件: 反差別論の再構築へ』77-78頁
    ^ a b 一般財団法人とよなか人権文化まちづくり協会 (第45号(2014年10月)
    ^ a b 豊中市講座 藤田敬一「体験的部落解放運動史」B(2013/6/25)
    ^ 『同和はこわい考』p.62
    ^ 『解放新聞』1987年12月21日「『同和はこわい考』にたいする基本的見解 権力と対決しているとき─これが味方の論理か」
    ^ カトリック大阪教会管区 部落差別人権センターたより 夏号12年7月NO.29
    ^ 自由同和会機関誌『ヒューマンJourmal』第213号、2015年6月。
    ^ a b c 朝治武・灘本昌久・畑中敏之編『脱常識の部落問題』所収、守安敏司「被差別とアイデンティティー」
    ^ a b 兵庫人権問題研究所編「今、あらためて八鹿髙校事件の真実を世に問う : 一般社団法人兵庫人権問題研究所開所40周年記念 : 「八鹿高校事件」40周年」(兵庫人権問題研究所, 2014)p.159
    ^ a b c 兵庫人権問題研究所編「今、あらためて八鹿髙校事件の真実を世に問う : 一般社団法人兵庫人権問題研究所開所40周年記念 : 「八鹿高校事件」40周年」(兵庫人権問題研究所, 2014)p.231
    ^ a b c 中西義雄『部落解放への新しい流れ』p.14
    ^ 『部落解放年鑑』1974年、p.296
    ^ a b c 『大阪の同和問題』107号における朝田善之助の発言。
    ^ 中西義雄『部落解放への新しい流れ』p.295
    ^ 朝日新聞長野支局「ルポ 現代の被差別部落」朝日文庫版p.168

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