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岐阜県

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概況

岐阜県の被差別部落の統計

調査年 地区数 戸数 人口
1907年 - 800 4431[1]
1920年10月1日 23 942 5271(男2603+女2668)[2]
1921年 23 928 4634[3]
1922年 24 929 4953[4]
1935年2月 21 910 4457[5]
1942年 - 813 3589[6]
1946年 - - 4474[7]
1958年 19 992 4661[8]
1963年 17 1216 地区全体5759、同和関係4147[9]
1967年 14 地区全体2139、同和関係971 地区全体8600、同和関係4076[10]
1971年 15 地区全体2543、同和関係1078 地区全体10028、同和関係4347[11]
1975年 15 地区全体2887、同和関係1147 地区全体10393、同和関係4298[12]
1985年 15 地区全体2887、同和関係1147 地区全体10393、同和関係4298[13]
1993年1月 15 地区全体3310、同和関係1213 地区全体10540、同和関係3888[14]

県下最大の被差別部落は養老郡養老町の三神・泉地区であり、世帯数645世帯、人口2371を数える(1975年6月現在)[15]。地区内には吉田姓と高木姓が多く、2009年に飛騨牛の偽装表示事件で有罪判決を受けた食肉卸売会社「丸明(まるあき)」(養老町三神町931)の社長も吉田姓であった。

養老町では三神・泉地区の人口が、隣接する市街地の高田地区や押越・御所地域に移動している[16]。高田地域に移動したのは部落内の富裕層である[16]。押越地域への移動は戦後の農地解放が原因で、戸数は約40[16]。御所地域への移動は1949-1950年ごろ、同地の工場用地の払下げが原因で行われ、戸数は18[16]。そして押越・御所地域に移動したのは部落内の中下層である[16]。1975年度より同和行政の対象が従来の三神・泉町の他に滝見町・神明・御所地域に拡大されている[17]。滝見町は三神・泉町の一画であり、同和対策の一環として集団住宅を建設した地域[16]。神明・御所も三神・泉町に隣接しており混住地帯である[16]

このほか、大垣市久瀬川町2丁目32の水神神社の裏手に隣接して水神裏地区があった。ここは「もともと同和地区ではなかった。大垣地区の一スラムであった。そこに、滋賀県犬上郡の『部落』出身者が流入して、『部落』を形成したのであった。その流入のはじまりは、明治末年といわれる。大正10年頃より、地区住民の生業の中心が蛇や蝮の採取になる。地区住民のほとんど9割が、『ヘビ取り』の生活をしていた。水神裏住民は、故郷をあとにし、原始的ともいえる採取生活を余儀なくさせられた。岐阜県『部落』の中でももっとも悲惨な生活を強いられていた住民であったということができる」と伝えられている[18]。この水神裏地区は岐阜県の部落解放運動の拠点となり、この地区から木村礎七(全水中央委員)、山田又七(全水大会岐阜県代表者)、吉野正義(全水中央委員)が輩出した[19]。この地区は21戸の規模だったが、1940年に都市計画で分散移住させられた[20]

水神裏部落は,大垣市若森町地内にある水神神社の裏手に隣接した地にあり,通称「水神裏」とよばれる「スラム」であった。明治末年ごろ滋賀県犬上郡呉竹地区出身者が移り住むようになり,従来から住んでいた住民は次第に転出。逆に呉竹出身者が流入し,所謂「部落」を形成していったのであった。流入の理由としては,呉竹地区で「渡り土工」として各地を転々として仕事を求めていた人びとがいたが,大垣市における紡績工場の建設にともなって,その建築労働者として移り住むようになったと考えられる。とくに水神裏地区に移ってきた理由としては,なによりも他地区に比べ低家賃であったこと,スラム住民に同じ建築労働者がいたことなどが考えられる。大正にはいり,大垣における紡績工場の建設が一段落したのちも,呉竹出身の住民は水神裏に居残った(居残らざるをえなかった。)転出したあとの家に,縁故を頼って呉竹出身者が,さらに移り住んできた。大正10年頃,東京浅草の薬問屋から蛇の買取りの依頼があり,水神裏住民の9割が「ヘビ取り」で生計をたてるようになった。水神裏住民のうち,3人が「ヘビ」の仲買人となっていたが,いずれも岐阜県水平社結成後部落解放運動の活動家であった。大垣市は,岐阜県における水平社運動,解放運動に打撃を与えるため,水神裏部落を消失させることを企画したと考えられる。昭和15年,強制的に,住民を他地区に移らせる分散政策を強行した。その移転補償費は平均,家賃6ヵ月分に相当する低額であった。こうして,「水神裏部落」は解体したが,多くの住民は,水神裏近くに移り,人間関係としては,従来の関係を余儀なくさせられていた。[21]

部落が岐阜県に少ないのは、足洗いをして農民になったためではないかとする考察があった[22]

大垣市若森会館運営協議会委員の木村一夫は「『市政のあらまし』によれば、若森会館は同和教育集会所として、地域住民が明るく住み良い地域づくりをめざして、学習会や集会活動を通じてお互いの人権を尊重し合い、地域の健全育成をはかるための施設」と紹介している。[23]大垣市南若森町2-20に若森会館がある。部落解放同盟岐阜県連委員長の石井輝男が南若森出身と自称していたが、実は一般地区の十六町の出身で部落民ではないとの説もある。大垣市内では、封建時代の身分制度に由来する伝統的な被差別部落の東町が「東部地区」として同和地区指定された。そのほか、上記の事情で被差別部落民の分散移住先となった日の出町、今町、本今町、南若森町、若森町が「西部地区」として同和地区指定された。

文献

全國部落調査(1935年)

岐阜縣 昭和十年二月現在

127頁

部落所在地 部落名 戸数 人口 主業 副業 生活程度 現在地 備考
岐阜市 島 早田 五九 二七四 日傭、南部表、履物其他、行商 南部表、日傭 岐阜市 早田東町1丁目
稲葉郡 黒野村 黒野 一〇三 五一五 皮革、農業、履物修理、牛馬商其他 行表、南部表 岐阜市 黒野、下鵜飼 北岡姓5件、北原姓6件。2000年電話帳。加藤貞泰が甲斐国から移封されて当地に住んだ時、旧領地から革細工職人の家族を3軒ひきつれてきて屋敷を与え、諸役を免除して城下町の外郭に住まわせたのが部落の起源と伝えられる[24]。「この口碑の史実性を立証するように、この部落では、他所者を除く生えぬきの地元民86戸が、ほとんど均分された3組のグループに分かれている。それぞれ各組の構成員は同一の苗字と同一の家紋を共有し、親類意識によって緊密にむすばれている」[25]と、北原泰作が述べている。1927年に昭和天皇に直訴をした北原泰作の出身地。北原泰作の本籍地は黒野村大字黒野200-2。北原泰作の母(同じ黒野部落の出身)の旧姓が北岡[26]。部落と一般の境界線は「黒野の城下町は、城郭の総構えのなかに包まれていたが、えた屋敷は郭外に置かれていた。私の子どものころには、部落(むら)の北はずれに総門口と呼ばれるところがあった。城の搦手の方角に外敵の侵入を防ぐために設けられた総門の跡である。(略)総門口から南へ約300メートル、加藤貞泰が建立したと伝えられている光順寺の裏門まで、50メートル幅の帯状に延びた竹藪があった。いつも太陽の光を遮っている薄暗いその竹藪が、一般町民と『部落』住民とを分け隔てる差別の壁になっていた」[27]と北原泰作が書いている。北原は1927年1月10日の入営について「部落(むら)からその日六十八連隊に入営するのは、北岡領八と北牧清太郎と私の三人であった」[28]と書いており、黒野の3つの部落姓の残りは北牧である可能性がある。また北原泰作のいとこの苗字は掛野であり、2000年電話帳では黒野に1件登録がある。また上原善広『日本の路地を旅する』170頁に「昭和4、5年頃に改姓運動が起こり、住民の大半が変えた」、「しかし変えたといっても、普通の苗字だからって佐藤(仮名)姓にみんなが変えたものだから、佐藤っていえばK(黒野、引用者注)だってことになっちゃってね。結局、あんまり意味なかったような気がするな」とある。
海津郡 城山村 駒野 一一 三九 履物商、食肉商 〃 〃 海津市 南濃町駒野
養老郡 多藝村 大墳、多岐 二五一 一二七五 行商、日傭、職工、皮革 〃 〃 養老郡 養老町 三神町 1635年、大垣藩主戸田鉄公が摂州尼ヶ崎から移封されたことに伴い、日比野治郎太夫が革工6戸を率いて移住したことに始まる[29]。延宝安永の頃は鳥井村と称し、その後大墳村と称し、明治15年に分村して北大墳村と改称、明治30年多芸郡大字大墳と称す[30]。岐阜県水平社本部結成者の高木重太郎の出身地区[31]。高木姓73件、吉田姓35件、水野姓6件。2000年電話帳。当地区を扱った吉岡進の論文「被差別部落における階層構造について」の謝辞に「大橋祝氏(履物関係)水野酒造太郎氏(皮革関係)高木旭氏(行商関係)」の氏名あり[32]
〃 日吉村 新宮 三〇 一六四 農業、履物商、日傭 農業、日傭 養老郡 養老町 室原 新宮
〃 時村 下山 一八 五九 農業、履物商、日傭 牛馬商 大垣市 上石津町下山
不破郡 表佐村 朝日 二七 一二一 農、商、漁業 日傭 不破郡 垂井町 表佐 藤墳(ふじつか)姓45件。山元姓12件。杉江姓3件。2000年電話帳。1955年1月11日に消防団で差別を受けた部落民の氏名は杉江嘉七[33]。県議の藤墳守(自民党)の自宅は表佐1814番地1。
安八郡 三城村 沢渡 三三 一四七 農、皮細工、行商 南部表、日傭 大垣市 東町 沢姓5件。2000年電話帳。
揖斐郡 本郷村 東屋敷 一七 一〇五 農、日傭、製材 〃 〃 揖斐郡 池田町 本郷

128頁

部落所在地 部落名 戸数 人口 主業 副業 生活程度 現在地 備考
揖斐郡 池田村 池野 三五 牛馬商、行商其他 日傭 揖斐郡 池田町 池野
本巢郡 北方町 円郷寺 一二 六八 屑物、農、漁業 〃 〃 本巣郡 北方町 北方 円郷寺 『角川日本地名大辞典』の小字一覧に円郷寺が記載。現在は北方小学校の校庭の一部の可能性。[34]
〃 土貴野村 中野 一二 七〇 農、牛馬商、無職 牛馬商 本巣市 七五三 七五三に中野会館あり。
山縣郡 髙富町 美里 三四 二二六 農、履物 食肉行商 山県市 高富 別名、天王地区。明治新姓の際、全戸(30戸)が戸長から強制的に革田姓を授けられたが[35]、のち改姓。本来は先祖が3戸であったことから、共通の字を冠した3姓にしようとしていたとする[36]。祖の3人は、仁兵衛、与三八、三五郎で、その後改姓したものとして以下の姓を記載している[37]。井伊(1件)、伊藤(7件)、梅田(2件)、掛野(2件)、高井(1件)、高木(2件)、田中(15件)、中村(36件)、中山(13件)、西村(9件)、武藤(17件)、森(4件)、吉井(6件)。2000年電話帳。
武儀郡 美濃町 新町 五五 三〇三 製材、雑貨、日傭其他 南部表、行商 美濃市 新町 岩見姓9件、岩本姓4件。2000年電話帳。
〃 関町 柳町 二二 一二九 職工、履物、商其他 南部表 関市 柳町 掛野姓5件、沢姓7件、古川姓5件。2000年電話帳。掛野一彦(1946年7月23日 - 、指定暴力団六代目山口組若中、二代目近藤組組長、初代掛野組組長)の出身地区かどうかは要調査。
可児郡 御嵩町 若松町 八二 三五三 農、行商其他 農、麻裏草履 可児郡 御嵩町 御嵩 字島垣外[38] 自治会名に「若松町」の名が現存。御嵩町御嵩1502にある隣保館の近辺。
〃 兼山町 柳町 一三 五五 履物、皮革商 行商 可児市 兼山 字柳町 35.451443, 137.085713付近。
恵那郡 岩村町 朝日町 一四 五五 日傭、行商、製革 恵那市 岩村町 朝日町 陸軍中将の大島健一は表向き岩村藩士大島桂之進の次男として岐阜県恵那郡本郷村字新屋敷に生れたことになっていたが[39]、1918年5月16日から3日間『大阪朝日新聞』に「村の誉──松葉将軍」という見出しで立志伝が連載され、「松葉五右衛門」の変名のもとに部落出身と報じられた。それによると「松葉」は部落出身を隠すため、まず18歳で信州飯田の禅寺の徒弟となり、それから戸籍を長州萩町に移し、西南戦争のどさくさに紛れて上京時に再び戸籍を変え、某県某町の士族某氏の子となり、今の名を名乗るようになったという[40]。宮武外骨はこれを受け「前陸軍大臣であつた大島中将は岐阜県の特殊部落の出身であると云ふ事が先年大阪の朝日新聞に出て居たが、果して其事が真ならば、我は旧穢多族なりと叫んで貰ひたい」と発言している(1919年8月13日、平民大学講演会での発言)。このとき臨監の警官は中止を命じたが、外骨は屈せず、これを『赤』第6号に発表している。『宮武外骨著作集』第8巻(河出書房新社)解説「宮武外骨と『穢多』の語」(師岡佑行)を参照。岩村町朝日町に大島姓なし。2000年電話帳。
大野郡 髙山町 合崎 九七 四一九 漁業、日傭、皮革其他 日傭、行商 高山市 大新町[41] 種蔵姓2件。2000年電話帳。大新町4から出た岩本晋一郎は部落民だが1959年から1967年まで高山市長を務めた。人口68,000人の高山市で50,000票を獲得しており、もう差別などなく同和対策は必要ないとしていたとする[42]。岩本姓が美濃市新町の部落にもあることについて「戦前は高山の同和地区と美濃市の人と行き来をしておりますし、苗字が同じ人もいます」と伝えられる[43]。同地には、幕末近くに高山市から皮革職人が来ており、地名も高山市と同じものをつけたとされる[44]
吉城郡 古川町 是重 一五 農、日傭、製材 飛騨市 古川町是重
〃 小鷹利村 上野 三〇 飛騨市 古川町上野
計二一 二一 九一〇 四四五七

岐阜県下ブラク起源(岐阜水平社本部調査部、1926年)

『自由新聞』1926年5月1日付6頁

部落所在地 由来 現在地 備考
稲葉郡 那加村 向野 70年前尾張国清洲より原野開墾の為来住せるものなり。 各務原市 那加太平町1丁目
稲葉郡 黒野村 黒野 文禄年中、黒野城主加藤貞泰が甲斐の国谷村城より移封の際、多く来住せしが右慶長15年伯耆国の米子城へ移封の際多くは従ひ転ぜしが3戸残留し爾来戸数増加したるは豊木村、三城村等から同人が来住したるなり。 岐阜市 黒野、下鵜飼
稲葉郡 島村 馬場 天正4年、織田信長近江国安土城を築きて、右同地の部落民をこの地に移住せしめたるなり。 岐阜市 早田東町1丁目 長良川の新しい堤防より川側。
海津郡 城山村 十番地 160年前、養老郡多芸村大墳より来住せり。 海津市 南濃町駒野
養老郡 多芸村 大墳 寛永11年摂津の国尼ケ崎城主戸田采女正氏鉄が、大垣城に移封の際、同地より6戸を招致し居住せしが起源なり。 養老郡 養老町 三神町
養老郡 日吉村 中村 明治3年大墳より開墾の為来住せるなり。 養老郡 養老町 養老町中
養老郡 時村 字下出[45] 慶長7年頃、多良村へ高木三家の封せられし時城山村より召致し居住せしむ。 大垣市 上石津町下山
不破郡 表佐村 南屋敷 往古、南宮神社美濃中山に鎮座の際、随従し来るものなり。 不破郡 垂井町 表佐
大垣市 若森町 明治の初年、滋賀県の同人が来住せるによる。 大垣市 南若森町
安八郡 三城村 沢渡 起源詳らかならず。 大垣市 東町
揖斐郡 池野村 観音堂 4、50年前大墳より移住せり。 揖斐郡 池田町 六之井
揖斐郡 本郷村 数百年前、京都より移住し来たり其後各地より来居せるなり。 揖斐郡 池田町 本郷
本巣郡 北方町 円郷寺 京都の公卿、武士の零落せる者が移住せるなり。武芸に長じ正徳年間より明治維新迄当地の代官の命を受け罪人逮捕訊問役を務む。 本巣郡 北方町 北方 円郷寺
本巣郡 土貴野村 中野 明治初年、大墳より来住せり。 本巣市 七五三
本巣郡 土貴村(ママ[46]) 屋井 起源詳細ならず。 本巣市 屋井
山県郡 高富町 野崎 天文年間土岐の重臣、恩田八郎に仕えしが土岐氏没落の折に本庄氏に仕えしものなり。 山県市 高富 現在の高富郵便局(高富1626)の南の道路と高富小学校(高富1079)の北側の道路に挟まれた地域周辺。
武儀郡 美濃町 新町 往古大矢田村亀蔵庵に住せしが慶長年間領主、金森氏、その弓術の長ぜるを賞し現在の地を賜りて来住せるより増加したるなり。 美濃市 新町
武儀郡 関町 柳町 正応年間、大和国春日神社当町に分霊したる際、其地より随従し来たりたる神職なり。 関市 柳町
可児郡 御嵩町 家康、関ヶ原の戦後、西軍の残党をこの地に居住せしめ、普通民との社交、同火を禁じたりしが起源なり。 可児郡 御嵩町 御嵩 字島垣外
可児郡 兼山町 下町 兼山城主、森武蔵守に仕へ、皮革業をしたるを始めとす。 可児市 兼山 下町 35.455551, 137.089500付近が下町。『全國部落調査』の柳町とは1キロほど離れている。
恵那郡 岩村 梨三木(ママ)[47] 慶長年間藩主、松平和泉守信州小諸町より皮革業者を招致したるが起源なり。 恵那市 岩村町 朝日町
大野郡 高山町 漆町 天正年中国司、金森長近其の家臣今井六左衛門をして陣太鼓を作らしめしに其技能優秀なりしを以て、事業の絶滅を惜しみ同人をして、皮革職の取締りを命じたり、其後裔と、天正年中金森氏の為に没落せられたる三木氏の臣、藤瀬新蔵一〓(ママ)の漂涙(ママ)せる者並に金森氏入国の際、応援したる細民及天明天(一字不詳)の饑饉の際加はりたる窮民等 高山市 大新町
吉城郡 小鷹利村 上野 300年前万歳楽を舞ひ廻国する者、之の地に土着せり。 飛騨市 古川町上野
吉城郡 古川町 上野 小鷹利村と同族。 飛騨市 古川町 吉城郡古川町に上野はない。『全國部落調査』に記載のある吉城郡古川町是重(現・飛騨市古川町是重)と同じ地区の可能性あり。

「以上は私等の調査した所であるが、この外二軒屋、三軒屋と云つたやうなのも二三あると聞いて居る」

施設等

隣保館

  • 美濃市美濃会館 - 岐阜県美濃市2057番地
  • 本巣市中野会館 - 岐阜県本巣市七五三1546番地
  • 岐阜市黒野共栄館 - 岐阜県岐阜市下鵜飼1564番地3
  • 大垣市あづま会館
  • 大垣市若森会館 - 岐阜県大垣市南若森町2丁目20
  • 山県市美里会館 - 岐阜県山県市高富1287番地1
  • 御崇町みたけ会館 - 岐阜県可児郡御嵩町御嵩1502番地
  • 養老町福祉センター - 岐阜県養老郡養老町高田79番地の2

小集落改良住宅

垂井町

  • むつみ住宅 - 垂井町表佐2125番地の1

同和対策集会所

  • むつみ会館 - 垂井町表佐2113番地の1

教育集会所

  • 岐阜市早田教育集会所 - 岐阜市早田東町一丁目67番地
  • 本巣市北屋井集会所 - 本巣市屋井1353
  • 養老町むつみ集会所 - 養老郡養老町三神町333番地の1
  • 養老町新宮集会所 - 養老郡養老町橋爪523番地
  • 養老町泉集会所 - 養老郡養老町泉町222番地の2
  • 養老町のぞみ集会所 - 養老郡養老町三神町148番地の1

人権啓発センター

  • 人権啓発センター - 岐阜県可児市下恵土233-1
  • 可児市役所 人権啓発センター - 岐阜県可児市下恵土5166−1

関連団体

  • 部落解放同盟岐阜県連合会 - 岐阜県岐阜市下奈良二丁目2-1
  • 部落解放同盟岐阜県連合会岐阜市内支部
  • 部落解放同盟岐阜県連合会養老支部 - 岐阜県養老郡養老町三神町345
  • 部落解放同盟岐阜県連合会大垣支部 - 岐阜県大垣市南若森町708-1
  • 部落解放同盟岐阜県連合会早田支部
  • 部落解放同盟岐阜県連合会垂井支部
  • 部落解放同盟岐阜県連合会美濃支部
  • 部落解放同盟岐阜県連合会南濃支部
  • 部落解放同盟岐阜県連合会高山支部[48]
  • 部落解放同盟岐阜県連合会関支部
  • 部落解放同盟西濃地区協議会
  • 自由同和会岐阜県本部 - 岐阜県岐阜市薮田南5-14-12岐阜県シンクタンク庁舎本館5F
  • 自由同和会岐阜県本部 - 岐阜県岐阜市司町1 岐阜総合庁舎内
  • 自由同和会本部事務局 - 岐阜県岐阜市古市場85-2
  • 全日本同和会岐阜県連合会本部 - 岐阜県岐阜市白山町2−8−3
  • 全日本同和会中東濃支部 - 岐阜県関市栄町1-34
  • 岐阜県民主同和促進協議会 - 岐阜市下奈良、岐阜県福祉農業会館内(略称「民同協」。会長は北原泰作。県内の20ヵ所の部落のうち12ヵ所に支部があった[49]

「岐阜県同和会」が岐阜県岐阜市司町1にあり、自由同和会岐阜県本部と所在地が一致している。

出典

  1. 留岡幸助「特種部落と其人口」(『人道』69号所収、1911年刊。1907年調査)
  2. 『部落問題・水平運動資料集成』第2巻306-307頁
  3. 内務省社会局「全国部落統計表」(内務省社会局『部落改善の概況』所収、1922年刊。1921年調査)
  4. 帝国地方行政学会『地方行政年鑑』1922年(『近代部落史資料集成』第10巻6-7頁)
  5. 中央融和事業協会『全国部落調査』(1936年刊。1935年調査)
  6. 同和奉公会『産業調査報告」(1943年刊。1942年調査)
  7. 厚生省よりGHQ民間情報教育局に提出された報告(『資料・占領期の部落問題』所収、1991年刊)
  8. 厚生省社会局「同和対策要望事項調査」(厚生省『同和行政の手引き』所収、1961年刊行。1958年調査)
  9. 内閣総理大臣官房審議室『全国同和地区実態調査結果』(1968年刊。1963年調査および1967年調査)
  10. 内閣総理大臣官房審議室『全国同和地区実態調査結果』(1968年刊。1963年調査および1967年調査)
  11. 内閣総理大臣官房審議室『全国同和地区調査結果の概要』(1972年刊。1971年調査)
  12. 総理府内閣総理大臣官房同和対策室『全国同和地区調査結果の概要』(1976年刊。1975年調査)
  13. 総務庁地域改善対策室『昭和60年度地域啓発等実態把握―生活実態把握報告書―』(1987年刊。1985年調査)
  14. 総務庁地域改善対策室『平成5年度同和地区実態把握等調査―地区概況調査報告書―(統計表編)』 (1995年刊。1993年調査)
  15. 磯村英一『同和行政論』第3巻299頁
  16. 16.0 16.1 16.2 16.3 16.4 16.5 16.6 『部落問題論集』創刊号、86-87頁
  17. 磯村英一『同和行政論』第3巻301頁
  18. 木戸季市「岐阜県の未解放部落(その2)歴史と現状」
  19. 木戸季市「岐阜県の未解放部落(その2)歴史と現状」
  20. 木戸季市「岐阜県の未解放部落(その2)歴史と現状」
  21. 木戸季市「岐阜県の未解放部落(その2)歴史と現状」
  22. 『未解放部落史の研究』(渡辺実、吉川弘文館、1965)
  23. http://ci.nii.ac.jp/naid/110000482429
  24. 『賤民の後裔』12頁
  25. 『賤民の後裔』12頁
  26. 『賤民の後裔』23頁
  27. 『賤民の後裔』11-12頁
  28. 北原泰作『賎民の後裔-わが屈辱と抵抗の半生-』102頁
  29. 『部落問題論集』創刊号、大阪府立大学、84頁
  30. 『部落問題論集』創刊号、大阪府立大学、84頁
  31. 『賤民の後裔』91頁
  32. 『部落問題論集』創刊号、大阪府立大学、115頁
  33. 「解放新聞」76号、1955年2月25日。
  34. 『北方町志 : 御大典記念』の5コマ目を参照。
  35. 『部落・根っ子ばなし 第2集』(田中竜雄、森朴繁樹、1983)
  36. 『定本被差別部落の民話』(田中竜雄、明石書店、1995)
  37. 『社会改善公道(覆刻)』(西播地域皮多村文書研究会編、西播地域皮多村文書研究会、1984)
  38. 『融和時報(縮刷版) 1933年1月1日号』(三一書房、1982)
  39. 報知新聞社『名士の少年時代: 新人国記 中部篇』66頁(1930年)
  40. 北原泰作は『賤民の後裔』61頁で「私が父から聞いた松葉将軍の実名は、水野寿太郎である。寿太郎は私の父より8、9歳年上であったという。寿太郎の兄の妻は私の部落(むら)の出身である。彼の生家は牛馬の革を材料として鼻緒を製造する家内手工業をいとなんでいた。ヿ彦(かねひこ)の商標は中部地方の業界では有名であった。彼は16、7歳のころ鼻緒の行商にしばしば私の部落へ来たという」、「戸籍の上に寿太郎という人物は存在しない。おかしなことに、長男と四男が記載されている戸籍に二男と三男が欠落している。これは記録のミスであろうか? 私にはそうとは思えない。作為にちがいないと考えられる」と述べており、大島健一の名には言及していないが、北原が記す「水野寿太郎」の経歴はことごとく大島と一致している。なお『皮革世界』4年7号(1913年4月)には岐阜県西濃地方における部落の毛皮商の水野善右衛門について「某陸軍少尉の実兄にて資産二十万円以上と目されゐる富豪なるよし」との記述が見える(『近代部落史資料集成』第5巻203頁)。ただし1913年4月当時の大島健一の階級は陸軍少尉ではなく陸軍少将。
  41. 丹羽邦男ほか『岐阜県の百年』(山川出版社、1989年)269頁
  42. 『岐阜地方の被差別部落の歴史に学ぶ』(田中龍雄『差別・被差別からの解放を パート2 御同朋の社会をめざして』(岐阜教区基幹運動推進委員会編、岐阜教区教務所、2001)所収)
  43. 『岐阜地方の被差別部落の歴史に学ぶ』(田中龍雄『差別・被差別からの解放を パート2 御同朋の社会をめざして』(岐阜教区基幹運動推進委員会編、岐阜教区教務所、2001)所収)
  44. 『岐阜地方の被差別部落の歴史に学ぶ』(田中龍雄『差別・被差別からの解放を パート2 御同朋の社会をめざして』(岐阜教区基幹運動推進委員会編、岐阜教区教務所、2001)所収)
  45. 下山の誤記の可能性あり。
  46. おそらく土貴野村の脱字。
  47. 梨ノ木(梨の木)の誤記か。
  48. 『解放新聞』1984年1月23日付6頁
  49. 解放新聞社編『被差別部落 I農山漁村』159頁