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同和地区特定ガイド

提供: 同和地区Wiki
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法的な問題

同和地区特定は違法ではない

同和地区の場所を聞いてはいけない、ネットに書いてはいけないと従来から法務局や自治体が指導を行っていますが、法的な観点から言えばこれは明確に虚偽であると言えます。判例によれば、東京高等裁判所は法務局の削除要請は「法的強制力はなく、国民の権利を制限するものではない」としています。従って、少なくとも行政が同和地区の特定活動を強制的に禁止させたり、刑罰を課すことはできません。

一方、同和地区の地名情報を拡散させることは、部落民とみなされる住民に不利益を生じさせると裁判所は判断しているようです。

しかし、仮に不利益あったとしても(もちろん、単に同和地区住民と分かったから不利益を受けることはないと私は考えていますが)、現実問題として「部落民」が賠償責任を追求することはできないと考えられます。なぜなら、賠償責任を裁判所が認めるということは、請求する当事者が部落差別によって不利益を受ける「部落民」が誰なのか裁判所が認定することに等しいからです。

そもそも、名誉毀損は特定の法人や個人に対して成り立つもので、特定の法人や個人と結びつかない「地名」を公言することを違法であるというのはかなりハードルが高いと思われます。

また、運動団体や自治体も出版物にも同和地区名が書いてきた経緯があるので、それらとの整合性が問題となります。出版物に載せるのはよくて、インターネットはダメと言える法律上の根拠はありません。

しかし、注意すべきことは、某川東氏のように水平社博物館の前で「エッタ」などと叫ぶと、やはり名誉毀損に問われます。以上のことをしっかりと理解し、無駄な敵意を燃やさないように心がけましょう。目的はあくまで同和地区の特定であることを忘れてはいけません。

情報公開制度を活用する

国においては情報公開法、各自治体には情報公開条例があります。これらの制度を利用することで、行政に公文書の公開を求めることができます。もちろん、同和地区名が記載された文書も請求の対象になります。

しかし、残念ながら現状では「同和地区の地名」とそのまんまの請求を行うと公開してもらえないのが現状です。また、そのような請求を一度行うと警戒され、さらに情報の入手が難しくなるので、なるべく避けてください。

同和地区の地名を請求する代わりに、実質的に同和地区の場所が分かる情報の公開を請求すべきです。そして、請求時に自分から「同和地区」「部落」などといった事を言わないようにしましょう。なぜなら、請求者の意図が不明であれば(たとえおおよそ見当がついたとしても)、役所の職員から「それを知られると同和地区の場所が分かってしまう」とは言い出しづらいものです。とすると、いわゆる「同和タブー」を発動することができず、市民団体などが行っている普通の情報公開請求と同様に処理せざるを得なくなるからです。

公開を求めるべき資料として最も有用なのは、同和対策関連の施設の所在地です。例えば隣保館、集会所、納骨堂、改良住宅等があります。これらは大抵の場合設置管理条例が存在するためです。それらの条例には施設の所在地が書かれており、その所在地あるいは近辺に同和地区があることが分かります。地方自治法により、地方自治体「住民の福祉を増進する目的をもつてその利用に供するために設ける施設」については、その設置と管理について定めた条例を制定しなければならず、その条例は必ず公開しなければなりません。稀に公開を拒む自治体がありますが、それは違法行為なので、法律を盾に断固として公開を求めましょう。

歴史を紐解く

同和地区とは何か

何が同和地区であるのか、これは明確な定義はありません。失効した同和対策事業特別措置法では「歴史的社会的理由により生活環境等の安定向上が阻害されている地域」と定義されていますが、この定義自体も非常に漠然としたものです。では、行政が認定したものが同和地区なのかという点で言えば、同和地区という用語がしばしば「被差別部落」と同義であり、また司法においては行政が認定しなくても、「歴史的社会的理由により生活環境等の安定向上が阻害されている」実態があれば同和行政の対象とすべきであるという、地裁での裁判例があります。

この歴史的社会的理由については、穢多・非人等の身分の人々が住む、いわゆる「穢多村」であったことが当てはまると考えられますが、それではどこが穢多村だったかということは、歴史的に完全に解明されているとは言えません。江戸時代の公文書に「穢多村」と明記されていれば分かりやすいですが、地方によっては死牛馬の処理の株を他の村から譲り受けたから穢多村となった事例や、明治以降に他の旧穢多村から移住した人により形成されたから同和地区とされた地域もあります。後者のような場合は、それが果たして同和地区の定義に当てはまるのか歴史家の間でも見解が分かれる事例もあり、また地元住民は認めないこともあります。

また、同和地区の数、面積、人口・世帯数についても、その正確性には注意が必要です。

まず、同和地区の数について。これは地理的にまとまった地域であれば1つの地区と数えるのか、あるいは地理的にはまとまっていても、自治会が複数あるなど住民が分かれていれば、隣接していても複数の地区と数えるのかによって大きく異なってきます。特に自治会の合併があったり、あるいは複数の自治会が連合体を作っていたりする場合には、さらに複雑になります。

次に面積について。同和地区とはあくまで集落のことを指すのか、周囲の田畑まで含めるのか、あるいは行政区全体を同和地区とするのかによって大きく違ってきます。また、隣保館や公営住宅等の施設を、もとは地区外だった土地に作る場合、その施設の周辺にまで同和地区が広げられたり、場合によっては他の行政区にまで「にじみ出されている」例があります。

人口・世帯数について。古くから同和地区内に住み、いわゆる「穢多・非人」の子孫と推定される人(いわゆる属人)だけを数えるのか、あるいは新しい時代に他の地域から転入してきた人も含めるのかによって大きく違います。同和地区内の世帯数だけ見れば非常に大きな地区に見えても、実は同和事業の対象となる属人の世帯数で言えば、ごく小さな地区だったということもあります。

野口道彦は『部落問題事典』(解放出版社、1986年)で「部落民とみなされる人、あるいは自ら部落民とみなす人を部落民という。この同義反復的なことでしか、部落民を定義することはできない」と述べています。[1]八木晃介は「定義といえば、実は、被差別部落の人びとを定義する方法さえなお確立されていない」[2]と指摘しています。八木正は「部落出身者とそうでないものとの境界は、きわめてあいまいなものである」[3]と述べています。山下力は「部落民とは何かと問われれば、自分が部落民であることを認め、それを引き受けているものが部落民だ、というぐらいしか答えようがない」[4]と述べています。高木正幸は「運動団体は『部落民』という言い方をするが、時代の推移、社会の流動の中で、もともと『部落民』『同和関係者』とはいったいだれを指すのかの認定はし難く、運動団体に対する行政の卑屈な姿勢がさらにその判断をあい昧にしている」[5]と批判しています。絓秀実のように「被差別部落民など存在しないのだ。そもそも、明治国家はいちはやく、「解放令」(一八七一年)によって、部落民は存在しないと宣言していたのではなかったか。近代国民国家の論理によっては、部落民を定義できないからである」[6]と述べる者もいます。[7] [8]

本サイトでは、文献に被差別部落として記録されている地区をもって被差別部落とみなすこととします。情報の信頼性を評価する手がかりとして、出典を明記することが重要です。

同和地区特定に有用なサイト

便利ツールのページを参照してください。

同和地区特定に役立つキーワード

  • (書籍の検索キーワードとして)特殊部落、細民部落、部落改善、地方改善、地域改善、改善事業、(住宅)改良事業、不良住宅密集地区、経済更正指定地区、中央融和事業協会、同和奉公会。
  • 部落解放同盟支部/協議会
  • 隣保館(解放会館、解放センター、人権文化センター、人権のまちづくり館、人権啓発センター、人権センター、人権同和センター、人権教育啓発センター、同和啓発センター、人権会館などとも)。
  • 部落、同和地区と分からないような当たり障りの無い名称に変更されている場合もある。隣保館の場合「いのち・愛・ゆめセンター」[9]「ふれあいセンター」「コミュニティワークうじ館」等。団体の場合、「いのち・愛・人権実行委員会」等。
  • 同和教育集会所(解放教育集会所、同和集会所、同和対策集会所、人権教育集会所、地域改善対策集会所とも)
  • 小集落改良
  • 二戸一住宅(二戸連住宅、二戸連棟住宅とも)
  • 同和住宅(解放住宅、地域改善向け住宅、地域改善対策住宅とも)
  • 市営浴場
  • 解放子ども会(同和地区住民や行政、部落解放同盟が小学生等の子どもに開く勉強会。カミングアウトと称するが実態はアウティングである「部落民宣言」をさせたり、狭山事件について教える事例がある。子ども会を開く学校の校区は同和地区を含む。)
  • 同和教育研究指定校(『部落解放年鑑』(部落解放研究所、1990)に詳しい。)、人権教育研究指定校
  • 白山神社(三河以東、仙台・米沢以南の東日本限定。但し、白山社自体は「虫歯治癒祈願」の神様として元々一般的にも広く分布していた事と、浅草弾左衛門が配下の長吏小頭に白山を祀るように指令したのは明和六年(1769)である事に先ず留意されたし。又、近隣に東光寺が存在する場合は、元々は俘囚を移配した「別所」であったケースが多い。大部分の俘囚は、寛平9年(897)以降は政策的に奥羽へ送還されている事にも併せて留意されたし。つまり近隣に東光寺が存在する場合は、むしろ確度は下がる)
  • 辛崎神社(唐崎神社とも。熊本県限定)
  • 稲荷神社(東北地方限定)
  • 熊野神社(鹿児島県限定)
  • シュクジノ神(シュクジ、シクジン、粛慎、夙子様=シュクジサマ、夙神=シュクジン、敷地などとも)を祀る神社(高知県限定)
  • 番神堂(佐賀県限定)
  • 皮革(市街地の場合は臭気の問題もあり、明治以降の移転先である場合が多い)
  • 太鼓
  • 製靴(先の「皮革」の項と併せ、"靴"自体が明治以降であることに留意されたし。むしろ「履物製造」であろう)
  • 食肉、精肉("食肉"の一般化自体が明治以降であることにも留意されたし。「屠場」も同様)
  • 馬捨場("馬捨場"は、所謂"職場"であり、それを"シマ"とする部落と同一ではないことに留意されたし。主要な街道筋で"馬捨場"の無い所は、衛生上の観点からも無い。馬頭観音も同様)
  • 古墳[10][11](ただし『日本差別史関係資料集成』12頁に「東国社会の場合では、古墳の近くに部落が散見されるが、そうした所は、戦国時代ないしは近世になってから、古墳を崩したり、古墳の近くに定住させられた場合がはっきりと確かめられるから、古代古墳の墓守が部落になった、というわけではない」とあるように、古墳の近くにある部落が即ち墓守とは限らない)
  • 山窩に関しては、関東や九州の一部では箕(竹細工の一種)が生業である[12]。関西や中国地方では川魚漁や棕櫚箒作りが山窩の生業である[12]。関西の箕作りや箕直しは山窩以外の部落民である[12]

古地図に「革坊町」「皮田町」「皮多町」「皮屋町」「毛皮町」「毛皮屋町」「穢多町」「穢多ヶ小路」「非人町」「隠亡町」「乞食町」「乞食谷戸」「乞食坂」などの地名を発見できる場合もある。そのような地名が通称として残っている場合もある。

白山神社に関しては、近隣の神社や寺院に合祀され、元の場所に現存しない場合が多い。又、「個人持ち」として姓名まで流布しているような場合、幾つかのケースを除いては殆どが"一般持ち"である場合が多いことに留意。

又、自由同和会(旧称・全国自由同和会)や全日本同和会の事務所は被差別部落と無関係な地区に置かれている場合が多い。

栃木県や千葉県では、被差別部落には必ずホリムロ(庭先につくる竪穴式の小屋)があるとされていた[13]。「ホリムロの存在をもってその地域を部落と判断した」ともいわれる[14]。埼玉県本庄市児玉町児玉[15]や長野県上高井郡高山村高井堀之内の部落でもホリムロの存在が報告されている[16]

仕事保障と産業振興のため、部落に共同作業場が作られていることもある[17][18]。作業種目については下着やメリヤスの縫製が多く、地場産業との関連で竹細工や陶器等を作っている場合もみられる[19]

部落の近くには嫌悪施設だけではなく、官立大学が置かれることも多い。具体例を下記に列挙する。

  • 福岡市東区馬出(九州大学医学部)
  • 熊本市中央区本荘(熊本大学医学部)
  • 東温市志津川(愛媛大学医学部)
  • 高知市曙町(高知大学朝倉キャンパス)→朝倉地区に隣接。
  • 岡山市北区鹿田町(岡山大学医学部)→岡町地区に隣接。
  • 出雲市塩冶町(島根大学医学部)
  • 和歌山市栄谷(和歌山大学)
  • 京都市左京区吉田(京都大学)→田中地区に隣接。
  • 大阪市住吉区杉本(大阪市立大学)→浅香地区に隣接。
  • 田川市伊田(福岡県立大学)
  • 北九州市小倉南区北方(北九州市立大学)
  • 高崎市上並榎町(高崎経済大学)
  • 東京都文京区弥生(東京大学)→旧・東京市本郷区根津片町(現・文京区根津)や東片町(現・文京区西片二丁目の一部ならびに向丘一丁目の一部、ならびに本駒込一丁目の一部)に隣接。

このほか、京都市立芸術大学の崇仁地区への移転も予定されている。地価が相対的に安いためと思われる。 また佛教大学紫野キャンパスは楽只地区に隣接している。

同和地区にありがちな立地

  • 城下町
  • 旧街道沿い
  • 旧国境(くにざかい)
  • 川べり[20]
  • 谷底
  • 海辺[21]
  • 火葬場、墓地、屠場、廃棄物処理場、下水処理場、野犬捕獲処理施設、病畜処理施設、伝染病隔離病院、遊郭、処刑場・刑務所・拘置所[22]、原子力関連施設[23]といった嫌悪施設が近い[24]。幕末には外国人居留地も嫌悪施設であった(横浜市南区の非人部落の起源は外国人居留地と関係がある)。陵戸に起源を持つ被差別部落が天皇陵の近くに位置している場合もある。

横浜市南区の(井土ヶ谷村を除く)"貧民窟"は、開国に伴う「港湾苦役や屠場の開設」により成立したもので、これらの使役には品川溜から差し向けられた非人も多いという。一般の貧民層も流入していることから、江戸期由来の「非人部落」というより、明治以降の「近代的スラム」と呼称すべきであろう(中区北方町等も同様)。ただし兵庫県神戸市の番町地区や東京の三河島地区や本木地区に見られるように、被差別部落と近代都市スラムの境界線は必ずしも明確でない。埼玉県草加市の吉町地区のように、封建時代の被差別民の居住地ではなかった地区が皮革産業の郊外進出に伴って新しく被差別部落とされる場合もある。江戸期由来の「部落」も明治以降の「近代的スラム」も、「同和」という観点から言えば等しい存在ともいえるが、板橋貰い子殺し事件(1930年発覚)で知られる岩の坂スラム(1928年の調査で477世帯)は被差別部落と見なされていない(ただし異論もある。トーク:東京都を参照)。

又、開国後の「居留外国人」への幕府の対応は、武州・相州の主要街道や橋に「見張番屋・木戸」を設置するというもので、安政7年(1860)2月末から71箇所が設置されたが、費用も嵩むため1867年6月には廃止されている。「見張番屋・木戸」は、近隣の農民や配置された非人が交代制で務めるもので、居住・定住していたわけではない。

川原に被差別部落が多いのは皮剥や皮なめしに大量の水が必要だったためでもあり、近世には無税地だったためでもある[25]。また、被差別部落が川の渡守で生計を立てている場合もある[26]

同和地区にありがちな地名

柳田國男は「所謂特殊部落ノ種類」で以下のごとく記している。

穢多ト他ノ特殊部落トノ間ニハ多クノ肝要ナル点ニ於テ相似アリ。其第一ハ土着ノ形式ナリ。彼等ガ居住地ニハ略一定ノ特色アリ。都会ノ周囲ニハ一箇ノ独立セル大字ヲ為ス程ノ大部落、例ヘバ京都ノ田中村鞍馬口村、大阪ノ渡辺、松阪ノ鈴止村、姫路ノ高木村ノ如キモアレド、他ノ多クノ部落ハ必或村ノ枝郷ニシテ、而モ其村ノ地域中最モ不用ナル空閑ヲ占ム。例ヘバ村境ノ原ノ中、山林ノ外レ、湿地川原ノ如キ多クハ耕作ニ不利ナル物陰ノ地ニシテ、見馴レタル者ハ村ノ外見ニテ此徒ノ住地ナルコトヲ知リ得。丹波因幡其他ニテハ穢多村ニ何島トイフ地名多シ。島トハ洪水ノ跡ニ新生スル川原ノコトニシテ、地味ハ肥エタレド水害ニ対スル保障ナク、大抵ノ百姓ノ土着ヲ欲セザル地ナリ。下総辺ニテハ何村ノ「ヤハラ」ト謂ヘバ穢多ヲ意味スル例多シ。「ヤハラ」ハ一ニ「アハラ」トモ称シ越中能登ナドニ湶ノ字ヲ宛ツル地名ニシテ沼地ノコトナリ。此ノ如キ地ニ穢多ノ住ム国アルナリ。淡路ノ笑原(アハラ)村ナドモ此類ナリト聞ク。

「下総辺ニテハ何村ノ『ヤハラ』ト謂ヘバ穢多ヲ意味スル例多シ」という指摘については、茨城県北相馬郡利根町布川谷原がそれに該当する。

同和地区にありがちな地名の特徴として、以下の点が挙げられる。

  1. セットになっている地名の片方だけが改名されている(例:奈良県御所市ではもともと東松本と西松本があったところ、部落にあたる後者だけが改名され、結果として東松本だけが残っている。愛知県あま市ではもともと西今宿と東今宿があり、両方とも部落だったが、同和地区指定を受けた後者だけが栄と改名された。東京都八王子市では上壱分方と下壱分方の地名があったが、部落がある後者だけが泉町と改名された。山口県下関市では部落にあたる東大坪町だけが改名され、一般地区の大坪本町と西大坪町と南大坪町が残っている。トーク:広島県を参照)
  2. 一丁目がないのに二丁目だけがある(例:三重県松阪市京町、旧称「日野町二丁目」の場合)
  3. 一区がないのに二区だけがある(例:福島県河沼郡会津坂下町塔寺大門、通称「塔寺二区」の場合)
  4. 伝統的な地名にまつわる地元での悪印象を払拭するため、無難な地名に改名されている(例:奈良県御所市西松本は1958年に元町と改称。長野県上高井郡小布施町小布施では本来の地名である三本木が部落の代名詞になったため昭和町に改称。しかし昭和町もまた部落の代名詞になったため中央と改称された)
  5. 「地名ロンダリング」を繰り返した結果として複数の地名で呼ばれている(例:京都市の崇仁地区は東七条とも柳原とも呼ばれている。大阪市の西成地区は西浜とも渡辺とも藻刈とも浪速西・浪速東とも呼ばれている。神戸市の番町地区は糸木とも西野とも呼ばれていた。名古屋市の新栄地区は下奥田町、菊里町、青木町・王子町、玄海とも呼ばれていた)

このほか「四丁目」「四本松」など数字の「四」を含む地名、「下町」「下宿」など「下」を含む地名が部落に多いとする説もある[27]。要検証。

解放令以降の新しい被差別部落について

早稲田大学の阿久津歩はこう指摘している。

江戸時代の「えた村」などの<被差別民の集落>の系譜をひいた地域が近代以降の被差別部落であるならば、数量的な増減はそれほどないはずだ。が、実際は大きく増減している。
例えば、兵庫県神戸市や広島県呉市、京都府舞鶴市などは、江戸時代「えた村」はなかったにもかかわらず、明治時代になると被差別部落が存在している。
この点は個人的にとても興味深く感じたので、少し長くはなるが具体的な事例を挙げておく。
神戸は幕末に開港してから急発展した都市だ。神戸では外国船に食肉を供給する必要から屠場が設けられた。
そして、そこで働く労働者や、船の荷の積み下ろしを行う港湾労働者が集中して暮らす地域が被差別部落となっていった。
「神戸の場合は四国の被差別部落から、また舞鶴の場合は山陰地方の被差別部落の人々が移り住んでつくられた」とも伝えられているが、そこに住む全ての人がそうであったわけではない。
そもそも、周辺住民はそこに住む人々の祖先や出身を確認した上で差別したのではない。周辺住民は、よそからやって来て、屠場・港湾労働・建設労働などの仕事をする人々を蔑み、彼らの暮らす地域との交流を避けた。
それまでに持っていた被差別部落への偏見の上に、さらに職業に対する新たな偏見を重ね合わせて、その地域を次第に被差別部落と見なしていったのだ。
福岡県では江戸時代から石炭を掘っていたが、その頃から「石炭掘りはいやしい仕事」と見なす傾向があった。明治時代になると、そこへ西日本各地から人々が集まって来た。
他の地域の被差別部落から来た人もいたが、全ての人がそうというわけではなかった。しかし地元住民は、よそ者である彼らを日常生活の交流から排除していった。その結果、新しい被差別部落が形成されることになったのだ。
これらのことは<被差別部落かどうかということは、その周辺に住んでいる人々が決めた>ということを示している。[28]

『全國部落調査』の掲載地区でいうと、福岡県では田川郡川崎町川崎大峰の大峰二坑や田川市弓削田の起行小路が、炭鉱の一画に新しく形成された被差別部落である[29]。また静岡県袋井市岡崎南区はもともと民間陰陽師の村であり、封建時代には被差別身分ではなかったが、解放令以降に没落し孤立した結果、被差別部落とみなされるに至った[30]。京都府舞鶴市の例で言えば「舞鶴市には軍港をはさんで6つの未解放部落があるが、そのうち4つまでは、明治30年以降形成されたものである。荒田、鍵田、奥市場、長浜部落がそれで、いずれも舞鶴鎮守府設置に伴う築港工事に鳥取県東部の部落から出稼ぎにきて、そのまま定着したもの」と『農村部落:その地域と社会』189頁(部落問題研究所出版部、1964年)にある。その他、

  • 大阪市西成区
  • 東京都足立区本木
  • 東京都荒川区荒川
  • 埼玉県草加市吉町
  • 広島県呉市山手
  • 広島県尾道市因島中庄町西浦区[31]
  • 京都府綾部市栗橋・栗町・栗揚・栗上[32]
  • 兵庫県姫路市丸尾町[33]
  • 兵庫県尼崎市戸ノ内町[34]
  • 三重県津市高洲町
  • 三重県津市大井町
  • 和歌山県新宮市
  • 岐阜県大垣市水神裏(のち南若森町に分散移転)[35]
  • 愛媛県今治市菊間町浜[36]

にも「近代以降に形成された部落」の存在が報告されている[37]。このうち、綾部市、津市、今治市の地区については天災や人災で移転形成されたものである。

なお鳥取県倉吉市では部落の多くが明治以降にできたもので、開田部落と呼ばれている。具体的には天神野、西鴨、中田、生竹、安歩、紀隠、志津の7地区である[38]。古くからある部落は勝負谷で、そこから大正時代に妻ノ神部落が派生した。みどり町はもっと新しく、昭和になってから成立した部落と考えられる。

出典

  1. アンサイクロぺディアもこの説を採用している。同和問題 - アンサイクロペディア
    同和地区出身者とは自分が同和地区出身だと思い込んでいる人のことである。
  2. 『「排除と包摂」の社会学的研究: 差別問題における自我・アイデンティティ』
  3. 『被差別世界と社会学』172頁
  4. 『被差別部落のわが半生』29頁
  5. 『新同和問題と同和団体』202頁
  6. 『小ブル急進主義批評宣言: 90年代・文学・解読』169頁
  7. 『大阪大学日本学報』(第23号)「部落民にとって〈わたし〉を語る言葉とは」(廣岡浄進)68頁には以下のようにある。

     社会学の立場からは、野口道彦『部落問題のパラダイム転換』(2000年)が出されている。野口によれば、部落と部落差別の実態が大きく変容し、部落民をめぐる境界線が錯綜化しており、旧来の認識の枠組みでは把握できなくなっている。「部落民」概念を再構築すべきだ、と野口は提唱する。石元清英は、1993年総務省調査を利用して部落民の血縁的系譜についての試算を行い、誰を部落民とみなすのかのあいまいさを指摘している。また、月刊誌『現代思想』も、特集「部落民とは誰か」(1999年)を組み、歴史学者、社会学者、活動家などの論説を集めている。

     部落解放・人権研究所は1995年から1997年にかけて、大阪府下の部落で生活史聞き取り調査を行っている。本書に関わるところでは、その成果の一部が活用された。松下一世『18人の若者たちが語る部落のアイデンティティ』(2002年)挙げられる。松下は、聞き取り調査に応じた大阪の部落青年のアイデンティティを、「部落アイデンティティ中心志向型」「多元的アイデンティティ志向型」「アイデンティティ葛藤型」「モラトリアム型」に分類し、それぞれの特徴的な語り、背景にある生い立ち、地域の解放運動や「同和」教育を紹介する。引用される語りは、興味深い。けれども、著者までもが「便宜的」と断るようなこのような類型化が、どれほど必要なのだろうかという疑問を、著者はぬぐいきれない。

  8. 示現舎の三品純は同和奨学金を給付を受けた者が「部落民になる」経緯を暴露している。この「部落民」は歴史的、地理的、文化的に決定される「部落民」とは全く異質である。 同和奨学金返還業務は大阪市職員の墓場?(同和と在日2011/3) | 示現舎

    実は「部落民」とは誰かという問題を検証する際に、「同和奨学金」は一つの重要なキーワードであり、解放運動とは何であったかを考える上でも欠かせないものだ。

     同和奨学金は本人や親の希望で積極的にというよりも、教師や地元解放同盟支部からすすめられて取得するということが圧倒的に多かった。同和奨学金は解放運動により「勝ち取られた」ものであるから、それを受け取ることで、部落解放同盟の行事に参加しなければならないという暗黙の圧力が生ずる。各学校では同和奨学金の受給者により解放奨学生の会が組織され、各地の解放奨学生の交流集会や合宿が行われた。そういう場面では、必然的に周囲は全て「部落民」なのである。

     すなわち奨学金を受け取ることで「部落民」であることを意識させる。というよりも誓わせる、といった方がいいかもしれない。同じ地区内で周囲のほとんどが同和奨学金を受け取っており、解放奨学生のイベントに参加しているとすれば、自分だけ奨学金を受け取らないということは難しい。受け取りを拒否する理由を説明することも困難だ。「アイツは部落の子供と一緒にされたくないと思っている差別者だ」と言われかねない。なので、地区によっては同和奨学金への加入率が一〇〇%となり、解放奨学生たちは解放運動のために協力せざるを得なくなる。そのため、同和奨学金は部落解放同盟の組織拡大策という言い方もできる。

     考えてみれば実に過酷な制度だ。奨学金によって新たな「部落民」を生み出した可能性すらある。多くの子供は、いずれそのような実情に疑問の持ち、冷めた目で見るようになるのだが、中には解放運動にすっかり染められてしまう子供もいる。そのような子供たちの行動は、さしづめヒットラーユーゲントか、文化大革命下における紅衛兵のようだ。

  9. 『human Rights134号掲載 連載・部落解放運動は今 辻暉夫(つじ・あきお 解放新聞大阪支局)新しい風37 「いのち、愛、ゆめ」センター』(社団法人部落解放・人権研究所)
  10. 柳田國男は「法師戸(毛坊主考の九)」で次のように述べている。「陵墓の地には少なくも二箇の便宜があつた。其一つは古塚には草木が茂生して遠望を遮り、普通人は穢気を畏れて之に近(ちかづ)かなかった故に、比較的容易に平穏なる家居を見出すことが出来、第二には塚の地は常に除地である為に、費用を要せず且つ占有を争ふ者が無つた。つまり京都の朝廷の管理が不能になつて後も、陵墓は社会的に永久に空閑として存在すべきものであつたから、農業の如き土地を破壊する職業を営まぬ人民が、偶然の番人として住付くことを得たのである」
  11. 前方後円墳のある古墳密集地と部落人口の密集地とが大略一致すると渡辺実は「未解放部落形成の時期に関する一考察」(『日本歴史』62号)で唱えたが、成沢栄寿は「例外があまりにも多すぎて、なりたたない」と反論している。成沢栄寿『日本歴史と部落問題』486-489頁。
  12. 12.0 12.1 12.2 『実話ナックルズX』vol.3(2007年12月5日発行)184頁における筒井功の発言。
  13. 『被差別部落の生活と文化』栃木県同和地区文化遺産調査委員会
  14. 『被差別部落: 東日本編』15頁
  15. 小林初枝『おんな三代』朝日選書版194頁
  16. 柴田道子『被差別部落の伝承と生活』151頁
  17. 庄谷邦幸「『同和対策事業』における仕事保障と産業振興: 高知県における共同作業場の経営実態(共同研究: 被差別部落の歴史と現状分析)」
  18. 『戦後部落の現状・行政の研究』400頁
  19. 総理府『同和対策の現況』117頁
  20. 本田豊は『新版 部落史を歩く 非人系部落の研究』281頁
  21. 本田豊は『新版 部落史を歩く 非人系部落の研究』281頁
  22. 具体的には以下の刑務所や拘置所が部落の中、もしくは付近にある(あった)。
    • 宮城刑務所 - 宮城県仙台市若林区古城2-3-1
    • 岐阜刑務所御嵩拘置支所 - 岐阜県可児郡御嵩町御嵩1190-1
    • 神戸刑務所豊岡拘置支所 - 兵庫県豊岡市京町12-90
    • 鳥取刑務所 - 鳥取県鳥取市下味野719
    • 広島刑務所尾道刑務支所 - 広島県尾道市防地町23-2
    • 山口刑務所下関拘置支所 - 山口県下関市春日町7-29
    • 佐賀少年刑務所 - 佐賀県佐賀市新生町2-1
    • 長崎刑務所浦上刑務支所 - 長崎県長崎市平野町7番8号
    • 厳原拘置支所 - 長崎県対馬市厳原町久田587-2
  23. 具体的には以下の原子力関連施設が部落の中、もしくは付近にある。
    • 志賀原子力発電所 - 石川県羽咋郡志賀町赤住1
    • 高浜原子力発電所 - 福井県大飯郡高浜町田ノ浦1
    • 伊方発電所 - 愛媛県西宇和郡伊方町九町字コチワキ3番耕地40番地3
  24. 本田豊は『新版 部落史を歩く 非人系部落の研究』21頁
  25. 本田豊は『新版 部落史を歩く 非人系部落の研究』281頁
  26. 本田豊は『新版 部落史を歩く 非人系部落の研究』281頁
  27. 小林初枝『こんな差別が』16-17頁
  28. archive.is/rYjTt
  29. 磯村英一、‎一番ケ瀬康子、‎原田伴彦『講座差別と人権』205頁
  30. 山本義孝『民間陰陽師の村 笠原院内』
  31. 因島市同和地区実態調査団『因島市の部落問題』32頁
  32. 解放新聞社編『被差別部落 西日本編』58頁
  33. 高田寛明『つくられた差別の町―近代姫路・ある部落の歴史』
  34. 尼崎市戸ノ内での聞き取り
  35. 木戸季市「岐阜県の未解放部落(その2)歴史と現状」
  36. 『ルポルタージュ部落 四国・九州編』166-167頁
  37. 藤里晃『部落史・部落問題学習のすすめかた』127頁
  38. 宇田川宏「鳥取縣における新部落の形成」