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千葉県

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概況

千葉県の被差別部落の統計[1]

調査年 地区数 戸数 人口
1907年 86 675 3866[2]
1918年 25 現住445、本籍471 3091[3]
1921年 22 474 2588[4]
1929年 39(聚団部落25+散在14) 現住570、本籍606 3459[5]
1935年 39 559 3533[6]
1958年 16 249 1478[7]
1963年 34 2486 地区全体11949、同和関係4352[8]
1967年 14 地区全体1248、同和関係628 地区全体5615、同和関係3374[9]
1971年 14 地区全体1466、同和関係700 地区全体6459、同和関係3368[10]
1975年 18 地区全体1602、同和関係716 地区全体6227、同和関係3192[11]
1985年 19 地区全体1614、同和関係728 地区全体6291、同和関係3256[12]
1993年 14 地区全体3673、同和関係633 地区全体11321、同和関係2264[13]

「東京日日新聞 房総版 大正7年9月4日

千葉県特殊部落調査

特殊部落 県下には二五ある 総人員は三千九十一人

本県にては内務省よりの通牒に基づき過般来特殊部落の調査中なりしが,愈々二日完了したり。

右に依れば県下の同部落数は海上,匝瑳,安房の三郡にはなく,千葉二,市原三,東葛飾郡八,印旛一,長生一,山武二,香取一,君津五,夷隅二の二五部落にして,戸数は本籍四百七十一戸,現住四百四十五戸,人口は男千五百六十九人,女千五百二十二人,計三千九十一人なり」[14]

「県下でもっとも早く行政闘争が行われたのは、酒々井町であった。ここに解放運動の灯がともるのは、一九七四年のことである。酒々井町の部落の労働者の中で、かなりの人々が、東京の墨田、荒川の皮革産業につとめていた。一九七〇年代に入ってから、東京にも部落解放運動がひろがってきた。とくに、墨田、荒川の皮革産業地帯は、運動の拠点地域であった。その関係で、酒々井の人達は部落解放運動に出会うことになる。一部には、すでに、解放同盟東京都連に参加している人々もいた。東京都連のオルグを受けて一九七四年六月、地元に支部が結成された」[15]

「野田市は千葉県でもっとも大きな部落をかかえており、千葉県の部落人口の半分以上が集中している。しかし、部落解放運動への立ち上がりがおくれ、一九八二年になって、部落解放同盟野田支部が結成された」[16]

県下の部落の数は約45とも報じられており、ほとんどが10戸以下で少数点在している[17]

県下では関宿町(現在の野田市)のみに水平運動が根付き、1924年に51世帯の参加による千葉県水平社本部が誕生したが、1928年にはもはや見るべき活動なしと記録された[18]

この水平運動とは別個に、関宿町、酒々井町、梅郷村(現在の野田市)、二川村(のち関宿町、現在の野田市)、土気本郷村(現在の千葉市)で融和事業が行われた[19]。特に酒々井町上本佐倉と瑞穂村谷中(のち佐原市、現在の香取市)は中央融和事業協会の指定地区であった[20]

1934年には、

  • 酒々井町
  • 瑞穂村(現在の香取市)
  • 二川村(現在の野田市)
  • 関宿町(現在の野田市)
  • 七福村(現在の野田市)
  • 土気本郷村(現在の千葉市)
  • 庁南町(現在の長南町)
  • 東条村(現在の鴨川市)
  • 姉崎町(現在の市原市)

の各部落で融和事業が実施された[21]

県内最大の部落は野田市にあり177世帯。最小の部落は東金市にあり3世帯であると三輪嘉男は述べているが[22]、実際には下記のように1世帯の「部落」が複数ある。

長嶋茂雄に部落民説があり、長嶋の実家は佐倉市臼井17番地で鈴木建具店の斜め向かいだが、『全國部落調査』の臼井台地区にあたるか否かは要調査。今昔マップ(1927~1939年)によると、臼井台の表記があるのは臼井台40番地の熊野神社近辺であり、長嶋の実家からは西に500メートルほどの距離がある。また赤松宗旦『利根川図志』第4巻19頁「臼井故城図其一」に掲載のある新旧穢多町の現在地は臼井ではなく臼井台と考えられる。

『千葉県部落調査表』に「千葉市、海上郡、匝瑳郡は部落を有せざるを以て之を除く」[23]とあるが、ここでいう千葉市は大正12年3月末日当時の旧市域である。

文献

全國部落調査(1935年)

千葉縣 昭和十年三月現在

86頁

部落所在地 部落名 戸数 人口 主業 副業 生活程度 現在地 備考
市原郡 姉ヶ崎町 姉崎 田中 一七 一〇二 漁業、商業 農業 市原市 姉崎
〃 鶴舞町 矢田 矢田 五八 農業 漁業、草履、芋掘 市原市 矢田
〃 八幡町 八幡 山岸 三六 漁業 市原市 八幡 山岸 別名「観音町部落」[24]
千葉郡 豊富村 八木ヶ谷 八木ヶ谷 一〇 船橋市 八木が谷
〃 〃 大神保 大神保 山林見廻 船橋市 大神保町
〃 都村矢作 台町 二五 皮剥製造 農業 千葉市 中央区 矢作町
〃 生浜町 北生實 五四 農業 漁業、草履 千葉市 中央区 生実町

87頁

部落所在地 部落名 戸数 人口 主業 副業 生活程度 現在地 備考
東葛飾郡 七福村 谷津 九四 七三六 商、農 農業 野田市 谷津
〃 〃 大神保 吉春 三五 二六〇 〃 〃 野田市 吉春
〃 関宿町 西町 五六 三八八 農業 商、草履 野田市 関宿台町 静姓6件。2000年電話帳。
〃 土村 根木内新田 四三 二九六 竹皮草履 柏市 豊住 1950年に根木内新田から豊住に改称。
〃 梅郷村 山崎 四四 二六四 草履 野田市 山崎
〃 布佐町 布佐 一一 五八 皮革、草履 我孫子市 布佐
〃 二川村 次木 一六 一一二 野田市 次木 竹沢姓13件、竹澤姓3件。2000年電話帳。
〃 〃 大神保 親野井 二〇 一三一 野田市 親野井 竹沢姓4件、田中姓22件。2000年電話帳。
〃 我孫子町 我孫子 二七 農、商 我孫子市 我孫子
〃 〃 大神保 柴崎 農業 我孫子市 柴崎
長生郡 廳南町 長南 白山 一二 一〇六 漁撈、日雇 長生郡 長南町 長南
山武郡 土氣本郷町 土気 第四區 二五 一三〇 漁獲、日雇、商業 千葉市 緑区 土気町 堀越姓6件。2000年電話帳。
〃 東金町 田間 新町 三〇 日雇 漁撈、日雇 東金市 田間 新町
〃 成東町 津辺 新田 二〇 農、職工 皮革、草履 山武市 津辺
香取郡 瑞穂村 谷中 一五 八三 農業 笠紐、製皮 香取市 谷中 根本姓6件。2000年電話帳。
〃 〃 大神保 寺内 二八 香取市 寺内
君津郡 中郷村 牛袋 六七 木更津市 牛袋
赤松宗旦『利根川図志』第4巻19頁「臼井故城図其一」。安政2年(1855年)。現・佐倉市臼井台の新旧穢多町の位置を示している。右頁の右下に「元穢多町」、左頁の右下に「今穢多町」の表記がある。妙覚寺との位置関係から推測すると、今穢多町は佐倉市臼井台126番地近辺と考えられる。一夜城(現・一夜城公園)との位置関係から推測すると、元穢多町は佐倉市臼井台三丁目南部から四丁目近辺と考えられる。なお、この地図は1987年に佐倉市市民憲章推進協議会(事務局佐倉市秘書課)発行のパンフレットに掲載された折、解放同盟から差別地図であるとの言いがかりを受けて糾弾に発展した[25]

88頁

部落所在地 部落名 戸数 人口 主業 副業 生活程度 現在地 備考
君津郡 三島村 一五 日雇 笠紐、皮革 君津市 辻森 君津市辻森の小字に谷あり。谷のフリガナはヤツ。「君津郡三島村の如きは部落を各一般部落に移転散在せしめ以て融和促進を期せんとし、村当局は昭和4年度に於て金1000円を予算に計上村会に附したるも、村財政上遂に否決の止むなきに至れり。而してこれ等出稼奉公中普通民と結婚する者少なからず。而して通婚後部落民なるが故を以て破鏡の歎を見たるもの稀なり」[26]
〃 中川村 横田 山中 一一 農、錻力職 農業 袖ケ浦市 横田
〃 佐貫町 佐賀 下町 三三 履物製造 草鞋 富津市 佐貫 佐賀は佐貫の誤記。
〃 〃 鶴岡 鶴岡 日雇 富津市 鶴岡
〃 久留里町 市場 沢向 二〇 九六 魚類販賣、農 農業、草履 君津市 久留里市場 林姓4件。2000年電話帳。
夷隅郡 長者町 長者 新田 三二 皮革業 漁業 いすみ市 岬町長者
〃 上野村 荒川 荒川 一三 農業 大工、木挽 勝浦市 荒川
安房郡 那古町 正木 五丁部 二二 皮剥業 館山市 正木 1708年、人形浄瑠璃の興行に対し、長吏への断りのない行為であると難癖をつけ、正木村の長吏小頭の善兵衛が真倉村の弾左衛門手代の革買治兵衛とともに芝居小屋を襲撃し、島流しにされた記録あり(勝扇子=かちおうぎ=事件)。
〃 富浦町 南無谷 下屋敷 三〇 皮仲買 南房総市 富浦町南無谷
〃 東條村 仲原 仲原 四八 漁業 皮革丁 鴨川市 東町、西町 バス停の名称としての仲原は東町と西町の錯綜する土地。
〃 長尾村 滝口 砂原 一三 農業 佐官養鶏 南房総市 白浜町滝口 砂原
〃 〃 根本 根本 南房総市 白浜町根本
印旛郡 臼井町 臼井台 一七 佐倉市 臼井台 1929年の「千葉県融和事業概要」によると現住者4戸40人、本籍者8軒。1876年当時に馬皮や犬皮を生産していたことが記録されている[27]
〃 酒々井町 本佐倉 二七 一〇五 草履 印旛郡 酒々井町 本佐倉、上本佐倉の各一部 柏木姓5件。2000年電話帳。上本佐倉には一班から六班まであり、被差別部落は六班。この六班は「中の者」「カア坊」「西台(にしでえ)」と呼ばれる[28]。「西台」は小字の名称。江戸時代、ここの穢多は佐倉藩の刑吏・警察的な下足人足をつとめていた[29]。2016年に発生した姉による弟へのバラバラ殺人事件の現場は上本佐倉だが1丁目4-13の建売住宅であり一般。
東葛飾郡 柏町 一二 五三 農業 柏市 柏
計三二 三九 五五九 三五三三
1854年(安政元年)発行『成田名所図絵(成田参詣記)』第4巻41頁。本佐倉の穢多町の位置が明記されている。現代の地図と照らし合わせると妙胤寺の門前の東側、印旛郡酒々井町本佐倉560番地から561番地あたりに該当する(現在の部落はそこから周辺地域に拡大している)。同書4頁には「即将門山の故城昔のさまは今の穢多町の辺に」との記述もあるが[30]、1973年11月に大野政治校注で復刻された際には本文中の「穢多町」が「□多町」と欠字にされ、地図からも「穢多町」の文字が抹消された[31]

※上記のほか、印旛郡酒々井町上本佐倉と隣接する佐倉市将門町にも14戸の部落があり、ほとんどが親戚である[32]。1974年に結成された解放同盟将門支部の初代支部長は小中孝司だが[33]、2000年電話帳では佐倉市将門町に小中姓はない。夷隅郡大多喜町にも7戸の部落があり、『解放新聞』に「県道から入るとすぐに自動車教習所があった。そのうらに七戸の家が点在していた。もちろん道はもう舗装していない。一戸をのぞいて家は古く小さい。ここは昔農地をもっていたが、進出してきた東京の会社へ売ったという。入口の自動車教習所が部落の土地だったのだ」[34]とあることから、1961年開設の大多喜町自動車学校(夷隅郡大多喜町紺屋81)の裏手と推測できる。なお、大多喜町自動車学校の裏手にあたる大多喜町田丁には白山橋という橋があり、そのたもとには押樽姓が5軒固まっている(ゼンリン住宅地図を参照)。284番地の押樽家と208番地の押樽家に挟まれた私有地に神社があるが、白山神社かどうかは要調査。270番地の「平川庵 藤崎」の私有地内にも神社がある。

また『浦安町誌』上巻の28頁には「明治初年頃まで、現在の若草幼稚園のところと、堀江の五番通りの十一面様の碑付近に、村の人達から、番太小屋と呼ばれる小さな小屋があった。小屋にはみんなから番太と呼ばれる者が住んでいた。猫実の番太小屋の近くには、昔花蔵院の墓地があった。番太とは『穢多』のことである」とある。すなわち、現在の浦安市猫実にも部落があったことがわかる。若草幼稚園とは現在の浦安市立若草認定こども園(千葉県浦安市猫実4丁目6-12)と思われる。

このほか印西市木下(きおろし)の川岸についても1772年の史料に「渡守 壱軒」と並び「穢多 壱軒」との記述がある[35]。印西市では、旧・竹袋村の皿沼に穢多屋敷の存在が確認されている[36]

松戸市の河岸についても1796年の史料に「囲堤内角田通リ水湛ニ付」き、庄左衛門ら4人が「出銭候人足惣村ゟ雇、水車を以水汲申候 此賃銭三貫五十文、外百廿四文 非人夜番銭」とある[37]。柏市藤ケ谷についても1868年の史料「藤ケ谷村御差出帳」に「一、村火之番小屋 一ヶ所 但シ非人成」[38]とある。館山市の真倉(さなぐら)についても1782年の史料「安房郡真倉村差出明細帳」に「一、牢屋敷 廿五歩 壱ヶ所 但弥古屋敷 是無年貢ニ御座候 一、穢多 老人」とある[39]。この穢多は牢番である[40]。現在の東電館山寮(館山市上真倉1926)から汐入川に向かった川べり辺りに仕置場があったと伝えられる。真倉はまた、1708年の勝扇子事件で島流しにされた革買治兵衛にも縁がある。

木下と真倉の地区について成沢栄寿は「一軒の穢多では、皮革関係を業としたとしても斃牛馬処理ぐらいのもので、加工ないし細工はほとんどやらなかったのではないか」と推測し、「『全国部落調査表』に木下・真倉(調査当時館山町)の部落が記載されていないのは、きわめて小規模であることとも関連して、昭和初期までに他出などによって解消してしまったか、調査もれになったからである」と述べている[41]

佐倉城下の非人については「総州佐倉御城府内之図」に「非人猿の小屋」との記載がある。これは『古今佐倉真佐子』(佐倉市発行、1983年)33頁の「乞食猿之こや」と同一視されている[42]。場所は佐倉市鏑木町96の「猿が脇の坂」の付近である。当時、同地には猿と渾名される乞食がおり、節季候(せきぞろ)や大黒舞という非人系の門付け芸を演じていた[43]。また佐倉藩の獄舎(佐倉市裏新町78の佐倉市役所裏新町倉庫のあたり)の近くに八軒町という細民窟があり、『古今佐倉真佐子』(佐倉市発行、1983年)51頁に「かたがけにてびんぼうもの斗住す所故、殊外むさき所にて通りの道かはくと云事なし」「こゝろある人は一切往来せず」「佐倉のごみ捨場とあだな付たる所也。こゝろざし人までむさし」と書かれ、桶屋や傘屋などの屋号を持つ細工職人たちが住み、部落とも交際があったが、単なるスラムか部落かは明らかになっていない[44]。八軒町は袋町ともいわれ、現在は佐倉市鏑木町167-1の「袋町集会所」に名をとどめている。鏑木町には、現在の佐倉市立中央公民館(鏑木町198-3)の地先に屠場があり、1970年頃まで営業されていた[45]。屠場の位置は「浅間様(引用者注、佐倉市鏑木町348の浅間神社か)の南の崖の下の方」[46]であった。また、この屠場のすぐ近く「八幡様(引用者注、佐倉市弥勒町254の八幡神社のことか)下の廻り角には皮の製剥工場があった」[47]。この製剥工場は、別の資料では「田畑を越えて八幡神社の崖の下に行くと右角には渡辺銀次郎さんの鞣皮工場が」あった[46]と書かれている。この屠場も鞣皮工場も大正時代から昭和にかけてのものであった[46]

また印旛郡飯田村(現・佐倉市飯田ならびに飯田台)について「木戸非人小屋1軒」と伝える1843年8月の文書が残っている[48]。藤崎俊は「佐倉道の村の出はずれの右側、今の畑道に廓を造り南下に通ずる道路の分岐点に木戸を設けて番人を置いた」、「飯田に番太がいた(引用者注、前述の非人と同じ)。一名番太郎とも言うが、主として押売、物貰い、旅芸人等を取締り、強窃盗のあった時は町同心(巡査)の手下になって働く。飯田上木脇1番地に住居し西河という老夫婦が明治30年頃迄居た」、「巡回役なるが故に巡(じゅん)と略して呼んだ。巡の宅の下を今でも巡下と呼び地名として残っている」と説明している[48]。江戸時代には飯田村の「かわだ」(皮多)10人が祝い芸「千石万石」を佐倉町内で演じた記録もあり[49]、上記の非人とは別個に穢多町を形成していた可能性があるが、飯田村のどこに住んでいたのかは不明である。

施設等

関連団体

  • 部落解放同盟千葉県連合会 〒285-0926 千葉県印旛郡酒々井町本佐倉352 千葉県人権研修センター内 ℡043-496-0015 Fax043-496-4572
  • 部落解放同盟千葉県連合会久留里支部 千葉県君津市久留里市場350-4
  • 部落解放同盟千葉県連合会上本佐倉支部
  • 部落解放同盟千葉県連合会酒々井支部
  • 部落解放同盟千葉県連合会将門支部 千葉県佐倉市将門町
  • 部落解放同盟千葉県連合会野田支部 千葉県野田市
  • 部落解放同盟千葉県連合会西町支部 千葉県野田市
  • 部落解放同盟千葉県連合会次木支部 千葉県野田市
  • 部落解放同盟千葉県連合会佐原支部 千葉県香取市
  • 部落解放同盟千葉県連合会関宿町協議会
  • 自由同和会千葉県本部 - 千葉県柏市富里1-1-1 M&Rビル3F
  • 全日本同和会 - 千葉県茂原市茂原1580
  • 全日本同和会千葉県連合会本部 - 千葉県市川市市川2-32-6
  • 全日本同和会野田地区連絡協議会
  • 全国部落解放運動連合会野田支部 - 千葉県野田市七光台405番地の2

「新日本同和清光会千葉県総本部」が千葉県千葉市若葉区若松町2170-17にあるものの、行政対応していない泡沫団体。

隣保館

  • 香取市みずほふれあいセンター 千葉県香取市谷中936番地1
  • 酒々井町隣保館 千葉県印旛郡酒々井町本佐倉696番地の21
  • 野田市立谷吉会館 千葉県野田市谷津1145番地の3
  • 野田市立七光台会館 千葉県野田市七光台242番地の1
  • 野田市立島会館 千葉県野田市山崎2549番地
  • 野田市立関宿会館 千葉県野田市木間ケ瀬619番地2

白山神社(合祀されたものを含む)

  • 千葉市緑区土気町354
  • 千葉市中央区生実町1784
  • 君津市俵田1452
  • 君津市久留里市場字下町
  • 君津市岩出字城山
  • 君津市根本258
  • 君津市泉389
  • 君津市大坂宮ノ沢1728-1
  • 君津市大野台310
  • 君津市中島(2社)
  • 君津市馬登530-1
  • 君津市福岡374
  • 君津市糸川
  • 香取市新部
  • 香取市谷中
  • 市原市八幡1124
  • 市原市石川89(白幡神社)祭神が菊理媛命。
  • 市原市宮原436(大国主神社)祭神の一つが菊理比賣命。
  • 市原市姉崎西2丁目5-17
  • 市原市五井
  • 市原市八幡1057-3
  • 市原市金沢82
  • 市原市高倉289
  • 市原市上高根989
  • 市原市中野208
  • 市原市飯給937
  • 市原市福増851
  • 市原市朝生原
  • 市川市稲越町
  • 市川市国府台3-11-11(国府台天満神社の境内社)
  • 木更津市下望陀
  • 木更津市椿208
  • 木更津市牛袋1047
  • 松戸市横須賀1丁目
  • 野田市山崎字北山(香取神社)
  • 野田市谷津(谷吉神社)
  • 野田市関宿台町732
  • 野田市関宿台町882
  • 野田市次木
  • 野田市木間ケ瀬475
  • 野田市下三ヶ尾
  • 茂原市柴名689
  • 茂原市北塚43(白山比咩神社)
  • 茂原市野牛299
  • 鴨川市東町158番地1
  • 富津市宝竜寺447
  • 富津市長崎517
  • 柏市豊住2丁目1-1
  • 袖ケ浦市大曽根774
  • 印西市滝1011[50]
  • 印西市中田切38
  • 印西市船尾1302
  • 印西市和泉
  • 印西市泉
  • 印旛郡酒々井町上岩橋字中山
  • 印旛郡酒々井町上本佐倉字西台228
  • 大網白里市小中744
  • 長生郡長南町豊原737
  • 長生郡長南町山内1604
  • 夷隅郡御宿町久保
  • 夷隅郡大多喜町横山325(1869年、熊野神社に合祀)
  • いすみ市能実877
  • いすみ市下布施1591
  • 我孫子市台田4丁目11(北星神社に合祀)
  • 我孫子市根戸(祠のみ現存。東陽寺近く)
  • 我孫子市新木1812(合祀されて葺不合神社)
  • 我孫子市布佐1220(合祀されて竹内神社)
  • 我孫子市緑1-6-8(合祀されて緑香取神社になる。合祀前の白山神社の場所は我孫子市白山2丁目7のめばえ幼稚園の南隣)
  • 館山市北条1066-2
  • 銚子市常世田町51(白山大神)
  • 銚子市猿田町1677(猿田神社)祭神の一つが菊理媛命。
  • 匝瑳市木積1213
  • 匝瑳市八日市場ニ
  • 南房総市上滝田1286
  • 香取郡多古町喜多126

小集落改良住宅

酒々井町

  • 酒々井町小集落改良住宅 - 千葉県印旛郡酒々井町本佐倉570

長南町

長生郡長南町豊原1008付近の改良住宅も同和住宅と思われるが詳細不明。要調査。

同和対策集会所

  • 上本佐倉同和対策集会所 - 千葉県印旛郡酒々井町本佐倉696−10
  • 将門同和対策集会所 - 千葉県佐倉市将門町71 043-486-4410
  • 西町同和対策集会所 - 千葉県長生郡長南町長南767番地の1
  • 鴨川市東町集会所 - 千葉県鴨川市東町158番地の1(白山神社境内)
  • 市原市姉崎集会所 - 千葉県市原市姉崎764番地の8
  • 市原市矢田集会所 - 千葉県市原市池和田1316番地の1
  • 市原市八幡集会所 - 千葉県市原市八幡1364番地
  • 下町集会所 - 千葉県君津市久留里市場350−4

人権啓発センター

  • 千葉県人権啓発センター - 千葉県印旛郡酒々井町本佐倉352

関宿町台町の由緒正しき人々

「県連元委員長である関口さんは,「年寄りからは『京都の公家がケンカで敗れ,ここに逃げのびてきた子孫』と聞いている」と語ってくれた。また,鎌倉時代,源氏家督争議のおり,追われて逃げた静御前がこの部落にかくまわれ,その礼に「静姓」を名乗ることを許した,それ以降いままで静姓を名乗りつづけている,という。  加えて,この部落は千葉県にはめずらしく,時宗の門徒である。時宗の一遍上人は遊芸民をひきいて布教をつづけたとあるから,これらの伝承もあながち虚構とはいえないだろう」[51]

  • 静勇男 千葉県東葛飾郡関宿町台町887 0471-96-1445
  • 静勝二 千葉県東葛飾郡関宿町台町1692 0471-96-1472
  • 静幸男 千葉県東葛飾郡関宿町台町712 0471-96-0783
  • 静恒雄 千葉県東葛飾郡関宿町台町947-2 0471-96-1759
  • 静惣市 千葉県東葛飾郡関宿町台町733 0471-96-1437
  • 静源蔵 千葉県東葛飾郡関宿町台町880 0471-96-0400
  • 静瀇 千葉県東葛飾郡関宿町台町747 0471-96-1439
  • 静豊吉 千葉県東葛飾郡関宿町台町746 0471-96-1438
  • 静進 千葉県東葛飾郡関宿町台町713-2 0471-96-3759
  • 静錦一 千葉県東葛飾郡関宿町台町1725-2 0471-96-1473

外部リンク

出典

  1. 『東日本の被差別部落』(明石書店)15頁
  2. 留岡幸助「特種部落と其人口」(『人道』69号所収、1911年刊。1907年調査)
  3. 『東京日日新聞』房総版、大正7年9月4日付に報じられた内務省の千葉県特殊部落調査。
  4. 内務省社会局「全国部落統計表」(内務省社会局『部落改善の概況』所収、1922年刊。1921年調査)
  5. 『部落問題・水平運動資料集成』第2巻359頁
  6. 中央融和事業協会『全国部落調査』(1936年刊。1935年調査)
  7. 厚生省社会局「同和対策要望事項調査」(厚生省『同和行政の手引き』所収、1961年刊行。1958年調査)
  8. 内閣総理大臣官房審議室『全国同和地区実態調査結果』(1968年刊。1963年調査および1967年調査)
  9. 内閣総理大臣官房審議室『全国同和地区実態調査結果』(1968年刊。1963年調査および1967年調査)
  10. 内閣総理大臣官房審議室『全国同和地区調査結果の概要』(1972年刊。1971年調査)
  11. 総理府内閣総理大臣官房同和対策室『全国同和地区調査結果の概要』(1976年刊。1975年調査)
  12. 総務庁地域改善対策室『昭和60年度地域啓発等実態把握―生活実態把握報告書―』(1987年刊。1985年調査)
  13. 総務庁地域改善対策室『平成5年度同和地区実態把握等調査―地区概況調査報告書―(統計表編)』 (1995年刊。1993年調査)
  14. https://web.archive.org/web/20040113030610/http://members.at.infoseek.co.jp/trotzdem/tokyonichinichi.htm
  15. https://web.archive.org/web/20050321130049/http://members.at.infoseek.co.jp/trotzdem/ayumi2.htm
  16. https://web.archive.org/web/20050321130049/http://members.at.infoseek.co.jp/trotzdem/ayumi2.htm
  17. 『解放新聞』1974年9月9日4頁
  18. 『千葉県・部落解放10年の歩み』31頁
  19. 『千葉県・部落解放10年の歩み』28頁
  20. 『千葉県・部落解放10年の歩み』29-30頁
  21. 『千葉県・部落解放10年の歩み』30頁
  22. 三輪嘉男「千葉県と島根県の被差別部落現地研修記」
  23. 『部落問題・水平運動資料集成』第2巻365頁
  24. 解放新聞社編『被差別部落 東日本編』19頁
  25. 『部落解放年鑑』1987年、81頁
  26. 『部落問題・水平運動資料集成』第2巻362頁
  27. 篠丸頼彦「明治初年に於ける佐倉地方の物産」『佐倉市誌資料』第2集(1957年)所収
  28. 解放新聞社編『被差別部落 東日本編』13頁
  29. 成沢栄寿『日本歴史と部落問題』507頁
  30. この記述は『千葉県印旛郡誌』25頁にそのまま流用されている。
  31. 『東日本の近世部落の具体像』329頁
  32. 『同和新報 1981年10月12日』(同和新報社)
  33. 『解放新聞』1974年12月2日3頁
  34. 『解放新聞』1974年9月9日4頁
  35. 『千葉県史料』近世編下総国下二三「木下河岸問屋旧記抜書」
  36. 『千葉県印旛郡誌』563頁、569頁
  37. 松戸市史編纂委員会編『松戸史料』第二集「諸向御用留(抄)」(松戸市刊)。
  38. 『千葉県史料』近世編下総国下一一◯
  39. 『千葉県史料』近世編安房国上一四七
  40. 成沢栄寿『日本歴史と部落問題』507頁
  41. 成沢栄寿『日本歴史と部落問題』507頁
  42. 『東日本の近世部落の具体像』333頁
  43. 『古今佐倉真佐子』(佐倉市発行、1983年)94頁
  44. 『東日本の近世部落の具体像』335-338頁
  45. 『東日本の近世部落の具体像』349頁
  46. 46.0 46.1 46.2 『佐倉お茶の間風土記』
  47. 内田金治郎「佐倉波奈志・鏑木あたり」『佐倉地方文化』第2号所収
  48. 48.0 48.1 藤崎俊「飯田の昔」『佐倉地方文化財』第4号所収
  49. 『古今佐倉真佐子』(佐倉市発行、1983年)94-95頁
  50. 『千葉県印旛郡誌』621頁
  51. https://web.archive.org/web/20040319234051/http://members.at.infoseek.co.jp/trotzdem/sekiyado.htm