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北海道

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概要

北海道の被差別部落の統計

調査年 地区数 戸数 人口
1870年 -(館藩すなわち旧・松前藩)[1][2] - 19(エタ7+非人12)[3]

北海道には被差別部落がないといわれるが、松前藩が革職人を配置した記録がある[4]。このほか、松前藩は幕末に、刑場の仕事をさせるために賤民の一団を本州から招き寄せたことがある[5]。成沢栄寿も「札幌市で開催された歴史教育者協議会第23回大会(1971年)の『部落・差別』分科会で、明治期に集団移住して他から差別的な待遇をうけている『未解放部落』が存在しているとの発言があったと聴く」[6]と述べている。

松前藩の刑場は、松前町大字総社堂(現在の北海道松前郡松前町字建石)にあり、立石野の首斬沢と俗称された[7]。この刑場は、立石野から日和岱(ひよりだい、修理岱=ひより岱)の中間の台地にあった。

しかし本田豊は北海道唯一の被差別部落を「函館市のなかにある」、「牢があったところは、現在は歯医者さんになっています」と述べている[8]。中島峻藏によると、箱館の刑場は亀田村(現・函館市吉川町、万年橋小学校付近)にあったという[9]。函館市史には以下の記載がある。

箱館奉行が被差別民である「穢多」を箱館に移住させたとみられることを付言しておきたい。「箱館夜話草」巻之壱(『函館市史』史料編第1巻)に、「安政三年の春より穢多ども此辺に住居する事とはなりぬ。是まで箱館に穢多といふものなし」とあるが、右の経緯からして、この文にある「穢多」とは、イギリス軍艦に対する牛肉・牛の供給を目的として移住させられたものとみられるのである。居住地は、市街東部にある「牢屋」の向かいの地であった(万延元年「箱館全図」、同図には「牢屋」の向かいの地に「エタ」と記されている)。[10] 
「箱館全図 万延元年」(1860年)の一部。牢屋の向いに「エタ」の表記が見える。現在の地図と照らし合わせると、エタの居住地は函館市末広町1番地の南部にほぼ重なっている。

このほか「松前藩が函館にありまして、そこの港町に被差別部落がある」と田中蔚『今, 光っていたい: 娘の遺してくれたもの』170ページにある。本田豊は「北海道にも被差別部落は存在する。史料によれば、幕末の松前藩内には函館の町はずれに『役人村』がつくられ、行刑や犯人探索などの下級警察機能を司っていたのである。明治維新を境にして役人村はなくなったといわれているが実際にはなくなっていない。それらの人々は、他国から北海道へ連れてこられた賤民である」、「道東の釧路平野、根釧台地、北見盆地などには、幕末から明治20年代にかけての『北海道移民』で広島や岡山、あるいは富山、石川といった地域の部落民が農業移民として北海道へわたり、新しい被差別部落を形成しているのである」と述べている[11]

本田は「奈良県や岡山、広島、滋賀、石川、富山、新潟、群馬などの諸県から北海道にわたった住民の形成した部落が道東の釧路、十勝、網走といった地方に存在している」[12]、「明治以降の旧同和地区からの移民では、広島県、岡山県、石川県、富山県、奈良県、滋賀県、群馬県、東京都の練馬地区からがあった」とも述べている[13]。大正期以降に内務省の提唱と帝国公道会の斡旋で滋賀、奈良、京都、徳島、高知などの被差別部落から北海道への移住が行われた[14]。たとえば1915年から1919年にかけ、釧路ならびに北見地方の6地区に奈良・滋賀県下の43戸の被差別部落から移住が行われている[15]

奈良から釧路への移住者の中では日裏(ひうら)姓が特徴的であり[16]、2000年電話帳では釧路市内に4件の日裏姓がある。ただし奈良の部落からの移民の子孫かどうかは不明。

なお全日本同和会は北海道に事務所を置いていた[17]。旭川市七条通8に旭川支部があった。全日本同和会北海道連会長は札幌市西区在住で菊地姓[18]

かつて北海道にはサムライ部落(砂山部落とも。公式名は厚生部落)と呼ばれる貧民窟があったが、被差別部落とは無関係である。ちなみにサムライとは廃品回収業者のこと。

北海道への部落民の開拓移民の歴史

  • 1913年9月 - 滋賀県下の被差別部落から4戸16名が移住、のち2戸が加わるも11年後に6戸中5戸が帰村。
  • 1915年 - 滋賀県愛知郡大町や滋賀県東浅井郡小桜から石狩地方への移住が決まるも、その後が続かず、1917年に帝国公道会の財政難から中止となる。
  • 1916年 - 釧路に30戸、北見に6戸、合計百数十名が移住。
  • 1919年 - 滋賀県下から十勝国河西郡に6戸が移住。しかし1925年頃の調査では、このうち2戸しか定住していなかった。

1912年までには滋賀県一県からだけで219名が移住していた[19]

「改善事業では大正二年から一二年までに滋賀・奈良・京都・和歌山・高知・徳島から総計二〇〇戸一〇〇〇人程度を送り出したに過ぎない」と『部落解放史・ふくおか 121号』(福岡県人権研究所編、福岡県人権研究所、2006)にあり、「近畿・四国地方などの部落で集団移住した例もあるが、それらの多くは舞い戻った」と『部落問題・人権事典』(部落解放・人権研究所編、部落解放・人権研究所、2001)にある。

関連団体

  • 全国同和会北海道支部 - 北海道札幌市東区北11条東9丁目1-3-221
  • 全日本同和会北海道連合会旭川支部 - 北海道旭川市七条通8

「全国同和会」の正体は不明。

関連文献

  • 黒川みどり『異化と同化の間: 被差別部落認識の軌跡』119ページ
  • 黒川みどり『つくりかえられる徴: 日本近代・被差別部落・マイノリティ』118ページ
  • 谷口勝巳『近江の被差別部落史』251ページ - 滋賀県の広野、虎姫村小桜、三ツ池、豊田などの被差別部落から北海道への移民が行われたことを記している。
  • 藤野豊『同和政策の歴史』110ページ

出典

  1. ただし松前藩の領地については「複雑な領地変遷を繰り返しており,またその支配地も現北海道の一部と陸奥国(現在の福島県の一部)と羽前(現在の山形県の一部東根市)に跨っていて何れの管轄地における穢多・非人のものか俄かに断定し難いものといえよう」と松井茂樹は述べている(「明治初期における穢多・非人の人口分布に関する一考察(3)」)。
  2. 呉文聡『統計集誌』第8号、1882年
  3. 『統計集誌』第8号 (明治15年4月)に掲載された呉文聡寄稿の府藩県別身分階層別人員表を、『日本史大辞典 (別巻)』の地方制度沿革一覧により再編集計した。『統計集誌』第8号に掲載された資料は、太政官正院修史局第二課編『藩制一覧表』(1868年調査)から部落の戸口を摘出して作成された太政官統計院編『明治己巳庚午年間各藩管内穢多非人等戸口調査材料』によるものと思われる。
  4. 川元祥一『被差別部落の生活と文化史』41ページ
  5. 本田豊『戦国大名と賤民: 信長・秀吉・家康と部落形成』18ページ
  6. 成沢栄寿『日本歴史と部落問題』513-514頁
  7. 重松一義『日本刑罰史蹟考』309ページ
  8. 本田豊『戦国大名と賤民: 信長・秀吉・家康と部落形成』18-19ページ
  9. 『北方文明史話』
  10. 『函館市史』通説編第2巻第4編「牛供給の許可」65-67頁
  11. 本田豊『部落史を歩く ルポ東北・北陸の被差別部落』250頁
  12. 『部落史からみた東京』(本田豊、亜紀書房、1990)
  13. 『戦国大名と賤民』(本田豊、現代書館、2005)
  14. 藤野豊『被差別部落ゼロ?: 近代富山の部落問題』62ページ
  15. 磯村英一、一番ケ瀬康子、原田伴彦『講座差別と人権: 部落』91ページ
  16. 『明治之光(複製版)』(兵庫部落問題研究所編、兵庫部落問題研究所、1977)
  17. https://web.archive.org/web/20040609082636/http://www6.ocn.ne.jp/~zinken/kurosawa.htm
  18. 『全日本同和会幹部研修会 平成19年度』(全日本同和会、2008)
  19. 藤野豊『同和政策の歴史』109-111ページ