平成29年5月7日 荒らしが再発したため、匿名編集を制限しました。編集依頼やアカウント作成依頼はburaku[at]protonmail.chまで。

部落解放同盟等による事件

提供: 同和地区Wiki
2017年1月9日 (月) 01:32時点における127.0.0.1 (トーク)による版 (矢田事件)
移動先: 案内検索

同和団体の不祥事はこのページにまとめます。

「部落解放同盟は利権を漁るために存在しているとんでもない暴力集団だ」というのは、部落解放同盟が今まで何をしてきたのかということをきちんと知っていれば、とんでもない言説だということはわかる。(略)それで、大量差別ハガキ事件とか起こってるわけじゃん。(上川多実のブログより)

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/部落解放同盟

目次

東京都

東京都政不当介入事件

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/東京都政不当介入事件

東京都政不当介入事件(とうきょうとせいふとうかいにゅうじけん)とは、1974年8月26日から8月30日まで部落解放同盟の構成員が東京都庁民政局長室を占拠し、「6項目の確認」の受け入れを東京都に要求し、東京都がそれを受け入れた一連の事件。東京都民生局長室占拠事件ともいう。

概要

1974年8月26日、部落解放同盟の構成員約20人が東京都庁に赴き、民生局で以下の「6項目の確認」の受け入れを迫った。

  1. 応急生活資金については、部落解放同盟都連を通じて申請したもの(43名)についてはただちに貸与する。その他のものについては「東京都同和対策協議会」(東京都と部落解放同盟都連だけで構成)小委員会で協議し、東京都と部落解放同盟都連で、「自覚、自立の意識」を高める教育をおこなったうえで貸与する。
  2. 都立産業労働会館(現・東京都人権プラザ)を、狭山闘争本部として、宿泊も含め、約1ヶ月間の使用を認める。
  3. 部落解放同盟代表と都知事との面会を9月10日までにおこなう。
  4. 狭山裁判についての決議を、都議会側と協議して、審議を促進、決議するように働きかける。
  5. 部落解放同盟正常化都連(現・人権連)のビラ(8月30日付)に事実と違うところがあるので、訂正したものを都が出す。
  6. 過去5年間の東京都の同和行政を総点検する。

第1項の生活応急資金融資については、窓口を部落解放同盟に同和行政の窓口一本化せよ、というのが部落解放同盟の要求であった。ところが都側がそれを拒絶したため、部落解放同盟は民生局にそのまま居座り続けた。そして8月30日までの5日間、民生局長室に立て篭もり、荊冠旗を窓から突き出すなどの示威行為をおこない、その結果、民生局の業務を麻痺させた。

結局、東京都は第4項と第5項を除いて部落解放同盟の要求を受け入れた。第3項の面会については9月13日に実現している。

その後

1974年9月16日夜、部落解放同盟とともに産業労働会館に泊まり込む中核派を革マル派が襲撃し、パトカー3台と警察官30人が緊急出動する事態となった。

このとき、部落解放同盟は「内輪の問題だから」との理由で、警察官の事情聴取も会館内集会室への館長の立ち入りも拒否した。

参考文献

  • 『しんぶん赤旗』1974年8月28日、9月1日、9月3日

外部リンク

http://meron.vanillapafe.info/archives/7193

部落解放同盟による公共施設の不法占拠

85年、墨田区の東墨田に、環境改善事業として都営住宅69戸が建設された。解放同盟は、この69戸のうち、立ち退き用13戸を除く56戸すべてに同盟員を入居させるよう、同年2月に集団で都庁に押しかけ、脅迫的に交渉した。その結果、入居から住居年限を外したり、募集当日に東墨田に居住していれば入居できる要綱を作成。申し込み用紙も特別に作り、他地域の解放同盟関係者が入居できるように、前例のない「東墨田向け」の募集が行われた。この年の都営住宅全般の入居倍率を見ると、最高1626倍だった。一般市民を尻目に、解放同盟だけは特権入居することができたのである。
荒川区は72年、荒川8丁目に、「環境改善仮会議室」を建設した。ところが、解放同盟荒川支部が、この施設を支部事務所として不法占拠。解放同盟の街宣車を置き、解放同盟支部専従者を常駐させた。このことは荒川区も容認していた。同施設が取り壊されると、89年、区民のために約4億3300万円を投じて建設された「さつき会館」の1室を解放同盟支部事務所として提供。同会館の「相談室」には、公然と「部落解放同盟荒川支部」の看板が掲げられ、不法占拠状態が続いている。
墨田区でも、社会福祉会館1階にある「同和相談室」が74年から解放同盟墨田支部事務所として不法占拠され、会館には解放同盟墨田支部の看板が掲げられた。加えて、年間120万円の団体助成をしたうえ、「生活相談事業」と称して年間940万円(92年)も支出してきていた。
台東区では、今戸児童館の3階にある「台東区同和対策協議会連絡事務所」が、解放同盟台東支部事務所として占拠されてきた。現在も、事務所で仕事をしているのは台東区の非常勤職員だが、実態は解放同盟の専従である。
葛飾区でも、奥戸7丁目にある「仮奥戸集会所」を、解放同盟に屈服した区が支部事務所として提供。事務所の電気・ガス・水道・電話料金からカーテンのクリーニング代、郵便受けの購入費、ガラスの修理代まですべてを区が負担(現在も)。70年代には、6年間で、解放同盟が約1億3000万円にものぼる同和予算を独占したこともあった。
品川区でも、区大井第1出張所分室2階の「同和相談室」を解放同盟支部事務所として使用していた。同分室は2001年に建て替えられたが、今は3階を「相談室」として、事実上、「解同」支部が事務所にしている。部屋には「解同」の故・松本治一郎の写真が大きく飾られ、一般区民はおろか区会議員の入室も、同和担当職員によって拒否された。
大田区では、解放同盟品川支部員の家主が、借家人7世帯の立ち退きを要求。6世帯は立ち退いたがが、残るYさんが立ち退かなかったため、8年前にYさんが「エッタ」と発言した(発言の有無の事実は不明)と言い、「大田区が同和行政をしないから差別事件が起こった。差別行政の結果だ」と大田区に持ち込んで、立ち退き問題を「部落差別問題」にすり替えたのだ。
足立区でも、解放同盟足立支部が、区内の公園に「同和対策協議会連絡事務所」を作って不法占拠するという出来事があった。その無法ぶりには区議会も反発し、区は明渡しを要求、訴訟になっている。18年間にわたる不法占拠の末、90年7月、最高裁は解放同盟の上告を棄却し、解放同盟に利用権がないことが確定した。結局、足立支部は立ち退かざるをえなくなったが、91年、区は解放同盟足立支部に「立ち退き料」として1400万円を支払っている。のちのこの金は、東京都の特別区財政調整交付金から出たものだったことが明らかになるが、まさに“泥棒に追い銭”を地で行く話であった。

[1]

部落解放同盟荒川支部による「部落ツアー」

鳥取ループと同様[2] 、部落解放同盟荒川支部の高岩氏は荒川の部落の場所を案内するツアーを企画した。ツアーで高岩氏は部落の場所として「さつき会館」、「都汚水処理場」(現・三河島水再生センター)、胞衣(えな)処理場、火葬場(町屋斎場)、「皮なめし」の工場を案内した。[3]

埼玉県

1983(昭和58)年2月、解同埼玉県連支部の幹部が、同和地区と無関係な住民を「にわか支部員」に仕立てて国税局に相続税を申告、被差別部落住民の税に関する特別配慮によって、普通の場合より相続税を減らすことができたとして、その「にわか支部員」から手数料および謝礼の名目で2800万円を巻き上げたが、その金が県連の会計に納入されず、「蒸発」して問題になった。結局、その支部幹部らによる着服が露見した。

岐阜県

岐阜県瑞穂市殺人未遂事件

http://jigensha.info/2016/10/08/gifu-ogaki-1/

三重県

弓矢事件

 1999(平成11)年 12月15日午前7時すぎ、三重県立松阪商業高校の永井久男校長が自宅の庭で首を吊り、同8時18分、山田赤十字病院で死亡。この事件は、同高校の弓矢教諭による発言が解同により「部落差別発言」と一方的に断定されたことに端を発している。弓矢教諭ともども永井校長も糾弾に巻き込まれ、連日連夜の心労から鬱病に陥り、もう許してやってくれとの遺書を残して自殺したものであった。

 2000(平成12)年 11月24日、三重県立長島高校の弓矢伸一教諭が解同を相手取り、津地裁松阪支部に慰謝料請求訴訟を提訴。そして松阪警察署には、やはり解同を相手取って脅迫・強要・名誉毀損で刑事告発・告訴をも行った。提訴された者は総勢13名。内訳は同和教育推進教員5名、解放同盟は書記長以下5名、その他3名(県教育長、松阪市、津法務局長)というものであった。

「弓矢事件」とその後について(1)

弓矢事件とその後(2)

「弓矢事件」について(3)

「弓矢事件」とその後について(4)

弓矢「差別事件」の真相 本人が語る

滋賀県

滋賀県公立中学校差別落書き自作自演事件

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/滋賀県公立中学校差別落書き自作自演事件

滋賀県公立中学校差別落書き自作自演事件(しがけんこうりつちゅうがっこうさべつえらくがきじさくじえんじけん)とは、1988年11月から1989年6月にかけて、滋賀県野洲郡野洲市野洲町の町立野洲中学校(現在の野洲市立野洲中学校)において行われた37件に及ぶ連続差別落書きが、後に部落解放同盟関係者の発言から同学校の教師による自作自演であることが発覚した事件である。野洲中学校連続差別事件とも呼ばれる[4][5]

概要

差別落書きは「エタ、アホ、死ね」などという内容で、同和地区出身の生徒の持ち物や学級日誌などに対して行われ、同和地区出身生徒の氏名を全員正確に列挙した落書きもあった。同校ではもともと「解放教育」の推進に反対者が多かったが、教育委員会や部落解放同盟は、犯人は生徒であるという前提のもとに同校での同和教育の不充分さを問題とし、これ以後「解放教育」への取り組みが強化されることとなる。

ただし、これらの差別落書きには幾つか不審な点があった。一つには、この学校には生徒1020名中、同和地区から通学する者は27名しかおらず、学校内でその生徒を特定できるものは限られていること。また、放課後生徒が帰り鍵を掛け、教師が見回りを重ねていたにもかかわらず、次の見回りまでに落書きが発見されたり、数分間だけの空白の間に職員室から学級日誌がなくなっていたりもした。

この事件は1990年6月、滋賀県の同和研修中級講座における、部落解放同盟滋賀県連教育対策部長(当時)の西義治の発言により、教師の自作自演であることが発覚した。西は

「ここだけの話ですけど、野洲中の落書きをしたのは実は大人なんです。そして学校内部の人間なんです。だれが考えてもそうしか結論がでえへんのです。だれやと思います? 実は先生なんです。だいたいわかってますけど、言うてしまうといろいろ問題になるし、『いや、わしはしてへんでー』と居直られたら終わりですので、言いませんけど、ここだけの話ですよ。ここだけの。実はそうなんです。子どもらもちゃんと知っているんです。ほんなん先生しかできひんわ、いうているんです。わたしらいいひんとき、何で差別落書きが出てくるんか、おかしいやんか、みな言うんです」

と語っている[6]

参考文献

  • 「部落」編集部『「野洲中学校連続差別事件」とは』部落問題研究所、1991年
  • 寺園敦史『だれも書かなかった「部落」』pp.94-95(かもがわ出版、1997年)
  • 『同和利権の真相3』宝島社、2003年


1988(昭和63)年 11月から翌年6月にかけて、滋賀県野洲(やす)町の野洲中学校で37件もの「差別落書き」事件が起き、大きな問題になった。しかしこれは、同校内で解同などがいうところの「解放教育」を進めようとする教員によって仕組まれた「自作自演」の疑いが極めて濃厚であることが、今日では明らかになっている。 
教育委員会や解同などは「犯人は生徒」という前提のもとに、同校での同和教育の不充分さを問題にした。事件後、この中学ではそれまで校内で反対の強かった「解放教育」が取り込まれていく。 
ところが後になって、事件を追及する先頭に立っていた解同滋賀県連教育対策部長の口から、意外な真相が語られた。90年6月に滋賀県の某自治体で行われた「同和研修」の講演で、この「差別事件」について、教育対策部長は次のように証言したのである。 
「野洲中の落書きをしたのは実は大人なんです。そして学校内部の人間なんです。だれやと思います? 実は先生なんです。だいたいわかってますけど、言うてしまうといろいろ問題になるし、子どもらもちゃんと知っているんです。ほんなん先生しかできひんわ、いうているんです。わたしらいいひんとき、何で差別落書きが出てくるんか、おかしいやんか、みな言うんです」 
教師が「差別事件」を演出し、生徒を「差別者」に仕立て上げ、そして反発の強かった特定団体の意向に沿った教育が強引に導入されていく——という仕掛けであった。

京都府

1996(平成8)年2月9日から3泊4日(車中1泊含む)の日程で,解同京都市協青年部所属の75人が長野県の志賀高原へ「学習会・スキー研修」を行った。京都市は「本市の同和問題の解決にとって有意義なものであると認められる」と認定し、142万円を支出した。解同が提出した「申請書」に添付された同盟資料では、この「学習会・スキー研修」実施の趣旨が次のように説明されている。 
「部落差別の現状を認識し、今後、我々青年層が、どのような取組を実践すべきなのか、意見交換を行いながら、参加者の交流を深めるとともに、部落解放の実現に向けて闘うための健康増進をはかりたいと思います」 
ジャーナリストの寺園敦史氏は、この件について次のように批判している。 
「日中は『スキー研修』、夜は『学習会と交流』をおこなったと『報告書』にはあるが、いったいこんなことにまで142万円もの公金を出さなければならないのか。意見交換や交流ならスキー場でなくてもできるだろう。同盟青年部のメンバーがとくに貧困で病弱者ぞろいならともかく、『闘うための健康増進』(スキーのこと)など自分の金でやってくれと言いたい」 
「市民感覚からみてとうてい納得のいかない行事に多額の助成金がばらまかれているケースである
2000(平成12)年10月14〜15日、解同中央本部の主催により、愛知県で全国識字経験交流集会が開かれた。京都市は「代表派遣」の名目で解放同盟市協に46万円を助成。解同の報告書によると25人の京都市協役員・支部員が2日間フル参加したことになっているが、解同の機関紙『解放新聞』では京都市を含む京都府全体の参加者は13人だけ。しかもこれは、九条オモニハッキョという団体からの3人と、行政関係者を合わせての数字である。つまり、同盟市協からの参加者はどんなに多くても10人に満たないことになる。参加者を何倍も水増しして助成金を受け取るという解同の手口がうかがえる。
 10月19日、大阪高裁にて、ジャーナリスト寺園敦史氏による「同和中毒」訴訟の控訴審判決が言い渡された。この訴訟は、京都市が各同和団体支部に支出している助成金関連公文書を、非公開処分にしたのは不当だとして、寺園氏が京都市長を相手に起こした情報公開訴訟である。 
 根本眞裁判長は、「(公開はねたみ意識を生み,差別を助長するというが)市は情報を明らかにしたうえで,団体や市民などとの円満な調整に努力すべきだ」と、京都地裁による1審判決を支持し、京都市の請求を棄却した。 
 寺園氏は1997年、この助成金に関する公文書の公開を請求したが、京都市に拒否されたため提訴に踏み切った。2000年5月、1審判決は「事業執行に支障が出るとはいえない」と、市に全面公開を命じ、市は控訴していた。 
 このとき確定した判決を受けて、11月30日と12月6日、京都市は同和団体支部あてに支出している同和補助金にかかわる公文書を開示した。 
 この結果、「宿泊学習会」名目で、解同の温泉旅行・慰安旅行に多額の税金がくりかえし支出されている事実が露見した。 
 具体的には、97年度18件、98年度14件、99年度16件で、その行き先のほとんどは全国の温泉地であった。年度ごとに金額の大きい上位3事業の行き先は、以下のとおりである。 

97年度 
1 解同千本支部「支部学習会事業」 
(1)行き先(宿泊施設名・1泊1人料金):愛知県(ホテル東海園・2万2000円)、静岡県(ホテルエンパイア・2万2000円) 
(2)実施日:9月25日(木)〜27日(土) 
(3)参加人数:117人 
(4)補助金額:240万円 
(5)その他:学習会講師名記載なし 
2 解同改進支部「支部学習会」 
(1)山陰方面(玉造温泉「保生館」・2万3000円) 
(2)3月15日(日)〜16日(月) 
(3)65人 
(4)180万円 
3 解同田中支部「支部1泊学習会事業」 
(1)静岡県(ホテルアンビア・2万5410円、松風閣・2万5410円) 
(2)11月21日(金)〜22日(土) 
(3)80人 
(4)155万円 
98年度 
1 解同千本支部「幹部学習会事業」 
(1)和歌山県(ホテル三楽荘・2万8000円) 
(2)11月3日(火)〜4日(水) 
(3)146人 
(4)240万円 
(5)学習会講師名記載なし 
2 解同田中支部「支部1泊学習会と青年事業」 
(1)淡路島洲本(ホテルニューアワジ・1万9590円) 
(2)11月20日(金)〜21日(土) 
(3)140人 
(4)220万円 
3 解同千本支部「夏の支部学習会事業」 
(1)愛知県(三谷町平野屋・2万5000円) 
(2)8月29日(土)〜30日(日) 
(3)104人 
(4)155万円 
(5)学習会講師名記載なし 
99年度 
1 解同千本支部「視察研修会事業」 
(1)香川県(鷲羽山鷲羽グランドホテル・2万2000円) 
(2)9月23日(木)〜24日(金) 
(3)115人 
(4)270万円 
2 解同千本支部「青少年・壮年・女性合同学習会」 
(1)奈良県(多武峰「多武峰観光ホテル」・2万4000円) 
(2)7月4日(日)〜5日(月) 
(3)96人 
(4)250万円 
(5)学習会講師名記載なし 
3 解同田中支部「支部1泊学習会と青年事業」 
(1)三重県津市、伊勢市(三重県厚生年金休暇センター・1万6200円) 
(2)11月12日(金)〜13日(土) 
(3)108人 
(4)190万円

 学習会の時間を見ると、「報告書」に記載されている数字を信用したとしても2〜4時間程度にすぎない。99年度を別として、温泉につかるのが主目的としか思えない日程である。また、学習会のテーマも、地元問題に関することがほとんどで、講師も支部の支部長がつとめる場合がほとんどである。 
 補助金を受けた「学習事業」を1回もおこなっていない支部がある一方、毎年複数回の「学習事業」をくりかえしている支部もあり、もっとも甚だしいのが千本支部である。 
 同支部は宿泊を伴う「学習事業」だけで、この3年間でそれぞれ、5回615万円、4回605万円、5回840万円——合計14回2060万円もの補助金を京都市から受け取っている。
 京都市は、「平成11年度からは温泉旅行と誤解されるものには支出していない」と主張しているが、件数や金額的には大きな変化がなかった。

大阪府

http://www.jcp-osakasikai.jp/page/new_page_267

1990(平成2)年 6月19日、ニセ税理士・大西省二が税理士法違反容疑(無資格営業)で逮捕された。大西は、解同を背景にもつ税務経営相談団体「中企連」の元幹部で、山口組最高幹部の宅見勝の腹心であり、2年前に独立し、税務署幹部と癒着しながら顧客の脱税を請け負っていた。 
大西は2年聞に脱税工作約100件を請け負い、計4億4000万円の報酬を得る一方、税務署幹部らを高級クラブなどで連日のように接待、「国税の顔役」と言われた東税務署の特別調査官(副署長級)Nと旭税務暑の統括調査官Hに計2000万円以上の現金を渡していた。 
1996(平成8)年8月26日午後4時すぎ、大阪市北区の大阪駅前第3ビル前の路上で山口組系暴力団生島組の生島久次・元組長(当時56歳、本名・高佑炳)が射殺された。 
1970年ごろに生島組を結成した元組長は、現役時代から金融業や会社整理を手がけ、70年代から80年代にかけて、活発に不動産買収や債権回収をおこなうなど、いまでいう「経済ヤクザ」の走りだった。オーナーだった日本不動産地所の直近の決算書は、バブル崩壊後の不動産状況にもかかわらず、当期利益2億4500万円を挙げ、56億円もの貸付金を計上、盛んな活動ぶりを裏付けている。 
当然、組関係とは、不動産や金銭貸付けの取引関係があった。そうした背景から、襲撃事件は金銭か土地取引をめぐるトラブルが原因との説もささやかれたのである。 
やくざに狙われるほどの生島元組長の経済活動を支えてきたものがある。それは、資産形成には絶対必要な〈マル秘〉の税金対策である。生島元組長は、税務署への申告が事実上フリーパスとなる解同系の業者団体に関係していたのだ。実際、「日本不動産地所は長年にわたって販売実績がなく、税務署には売上げゼロ申告をしてきた。88年11月決算で初めて金融収入を売上げに計上し、それまでのゼロから脱した」(大阪の信用調査会社関係者)という“経営”ぶりだったのである。 
また生島元組長は、行政当局に絶対的な力を持ってきた解同系業者団体との関係からか、1979年10月、当時はまだ現役の組長だったにもかかわらず、大阪市再開発建築施設買入融資制度による大阪市の斡旋で、三和銀行から約9000万円の融資を受け、大阪駅前第3ビルの日本不動産地所のフロアを大阪市から1億560万円で購入した。

八尾方式

 「矢田事件」が起こった同じ年の6月下旬、解放同盟は、大阪市の市会議長、副議長、そして自民党、民社党(当時)公明党の三党に、「木下文書」を「差別文書」と認めない共産党議員を問題にするように脅迫していた。そして7月12日には、約200人を大阪市役所に動員し、共産党議員に対して、「殺してやる」と罵声を浴びせかけ、二人に対して暴行を加えるという事件を引き起こしていた。
この日、解放同盟は市議会会議室で執行員会を開き、大阪市議会に対しては、「八尾方式」で圧力をかけていくことに決めた。

「八尾方式」とは何か。解放同盟はその5日前、大賀正行・部落解放同盟大阪府連合会幹部らの指導によって、ヘルメットをかぶり、こん棒まで用意した部隊を含む千数百人の同盟員を八尾市議会に動員させた。そして議会各派を恫喝し、斎藤俊一・共産市議を議会から除名処分させていた。解放同盟は、八尾市議会同様に大阪市議会に対しても、共産党大阪』市議会銀を議会から除名せよと、圧力をかけたのである。

 7月22日、解放同盟大阪府連幹部は、大阪市議会の議長、副議長、議会進行係りの議員に圧力をかけた。市議会側が開催を約束すると、8月13日、解放同盟は1000人近い同盟員を動員して本会議場の周りを占拠した。

 この時、上田卓三・大阪府連書記長(当時)らの幹部解放同盟の幹部は、市議会社会党控室を作戦本部にし、議長、副議長、各会派議員を脅迫して暴行を加えている。また、彼らは、自民、民社、公明、社会党各党幹事長に対して、「12時までに共産党議員を八尾方式でやってしまえ、やるまで議場にいれない。文句があれば機動隊を呼べ」と脅迫した。

 この日の解放同盟は、本会議場出口で共産党銀に暴行を加えたうえ、守衛二人にも暴力を働き、各会派の議員を罵倒して引き上げた。その際、自民、民社、公明、社会の各党は、「四党としては、共産党銀を弾劾、また弾劾決議する」と約束したものの、解放同盟が「決議だけでは承知しない。直ちに懲罰委員会を作りちょうばつにかけよ」と強要すると、自民、民社は「期待にそうようにする。まかせてくれ」と約束したという。

この時、岸上繁雄・部落解放同盟大阪府連委員長(当時)は、市議会議長に対して「水道料金も値上げしてやったじゃないか。2か月も待っている。早く決着をつけよ」と迫ったようだ。大阪市議会では、7月23日に水道料金の値上げを可決していらが、この時、もし解放同盟が議会に動員をかけていたら、議会が混乱して可決できなかったと言いたかったのだろう。議会さえ、自在に操ろうという、部落解放同盟の専横ぶりを象徴するエピソードだが、実際、当時の解放同盟の脅迫がどんなものだったのか、自民党議員があるところでこう漏らしている。

「なんぎなことや。議会が開かれへん。自民党だけでなしにみんな腰が抜けている。街道は視界を延長することしかやらさん。(共産党議員の処分以外の議題をやらさない、という意味)警察も怖がっているのとちがうか。議員の私宅を昼夜カンヅメにしてやろうかと解同はいっている。」

そして8月15日午前、市議会に押し掛けていた解放同盟の岸上委員長、上田書記長と大阪府の黒田広一市議会議長、寺西武副議長が市庁舎から姿を消した。彼ら向かった先は、大阪府都島区にある市長公舎だった。ここで、先の岸上委員長、上田書記長、市議会正副議長、進行係議員、中馬馨市長と3人の助役、そしてなんと解放同盟中央本部の朝田善之助委員長も出席して、「同和問題に関して共産党議員団に反省を求める」決議を市議会で行うことを決めた。

 こうして自民、民社、公明、社会の四党は「共産党銀段に反省を求める」決議(19日)をいっさいの質疑討論を封じて、わずか2分間で強行採決したのである。

 解放同盟の朝田派は、自らの基盤を確固たるものとするため、「矢田事件」を踏み絵にして組織分裂を仕掛け、「木下文書」を「差別」と認めない師部や同盟員を次々と排除、除名処分にしていった。その数は大阪府下だけで1000人にも上っている。

 彼らが市当局と市議会を屈服させ、「じゃまモノは消せ」とばかりに、部落解放運動を共にしてきた同志を次々と排除していった狙いは何か。冒頭でも触れたが、それは同和対策事業に投じられる巨額の公金を独占することだった。

 同和対策事業には、同特法が施行された69年から法期限切れとなった02年3月までの33年間に、大阪市だけを見ても、旧同和地区1世帯当たり約9000万円、総額1兆2000億円もの公金が支出されてきた。法失効後も毎年、百数十億円の予算が同和対策に使われている。

部落解放同盟が、こうした巨額の同和予算を独占するため、行政を糾弾して強要したのが「窓口一本化方式」だった。「窓口一本化方式」とは、同和対策事業を、解放同盟幹部が役員を独占する「大阪市同和事業促進協議会」(市同促・現大阪市人権協会)を通じて行うというものだ。同和行政は、これによって解放同盟の「独占管理」の下に置かれ、その要求通りに公的資金が使われていくことになったのである。

 これを受け入れた大阪市では、極端な同和優遇策が次々と推し進められていった。たとえば、建設費に百億円もかけた浪速区の栄小学校のように、旧同和地区内には相次いで巨費を投じた超デラックス施設が建設されていった。また、「ゆりかごから墓場まで」の同和優遇の個人給付、旧同和地区出身者の市職員への特別採用、いわゆる「同和枠」採用が進められたことで、一般地区との間に”逆差別”を生み出していくことになった。

 また同じ同和地区住民であっても、解放同盟に加入しなければ恩恵に与かれないという新たな差別も生み出した。地区住民なら家賃は900円だが、解放同盟に入らなければ4000円。非同盟員の子どもがプール利用を制限されたり、「木下文書」を差別文書と認めないと同和保育所にも入れない、身障手当も支給されないなど、地区住民の間に新しい差別を生み出していた。

[7]

部落解放同盟大阪府連セクハラ事件

【大阪の解放同盟幹部らがセクハラ】 

部落問題を中心に差別撤廃運動に取り組む部落解放同盟大阪府連(松岡徹委員長)の男性幹部ら2人が昨秋、女性を名指しして性的な侮辱発言を繰り返すなど、セクハラ行為をしていたことがわかった。女性の訴えに、2人は苦痛を与えた事実を認めて謝罪。府連も事態を重くみて、セクハラの相談窓口を作るなど再発防止策の検討を始めた。府連は「人権団体としてあってはならないこと。真摯(しんし)に受け止め、対応する」としている。 
同府連などによると、問題の発言は昨年10月初め、部落解放同盟の大阪市内の支部幹部を囲む宴席であった。前支部長が、同席していた別の人権団体の女性職員を名指しして「○○さんのヌード写真を撮って売り出そう」「(支部の)資金を稼ぐためや」などと繰り返した。女性は抗議したが、2次会でも「きょうは○○さんの自尊心をぼろぼろに傷つけたろうと思っとったんや」と発言したという。 

一緒に参加していた現支部長も、2次会で女性の年齢に触れて「この年では、もう売り物にならんな」などと嫌がらせ発言をしたという。 

女性は数週間悩んだあと、支部の別の幹部に訴えて問題が発覚。支部の調査に2人は発言を認め、12月に女性に謝罪。府連も再発防止策を検討している。

セクハラの被害者は以下のように告発している。

http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=182419&id=27074435

来月2月10日に大阪市内にて、セクハラ事件についての糾弾会を開催予定です。 
原告は私。 
被告は加害者1名と部落解放同盟大阪府連。 

解放同盟“を”糾弾するとは前代未聞(!?)のことかもしれませんが、事件から3年半の月日を経て、こういうことになりました。 

(略)

加害者どころか部落解放同盟側も逃げ腰です。 
このままでは糾弾する相手みんなに逃げられてしまう危険性が出てきました。 

解放同盟といえば、これまで他者を糾弾することにおいてはお得意中の得意なのに、自分の番になればこの有様。 
情けなくて泣けてきます。 

今の現状では、私の支援勢力を増やして「周りはこれだけ注目してる。その中であなたたちは逃げるのか!?」と詰め寄るしかないように思います。 

以外に(!?)マスコミも相手にしてくれません。 
何度もお願いにあがっているですが、関わりたくない という印象を受けます。 

今、大変困った状況です。 
何か良い考えがあれば教えてください。 
お願いいたします。 

尚、今のところ「裁判」という方法までは考えていません。

この事件は部落解放同盟であろうと差別・人権侵害すれば糾弾の対象になるという先例となった。なお多くの人権活動家、フェミニストが同事件を無きものとして取り扱っている。

矢田事件

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/矢田事件

矢田事件(やたじけん)とは、1969年に大阪市で発生した、同和問題を背景にした暴行監禁事件。

共産党員である中学教師に対し、部落解放同盟(解放同盟)が糾弾を行い、法廷闘争に発展。いわゆる「糾弾権」の存否が法廷で争われた。

本件の背景には共産党と解放同盟の対立があった[8]。本事件を契機に、1960年代半ばから燻り続けていた解放同盟と共産党との対立関係は決定的なものとなった八鹿高校事件など、解放同盟による反対勢力への一連の襲撃事件の嚆矢であり、戦後部落解放運動史上きわめて著名な事件である。

別名、矢田教育事件。解放同盟は矢田教育差別事件と呼ぶ。

  • 事件名=監禁
  • 事件番号=昭和56(あ)558
  • 裁判年月日=昭和57年03月02日
  • 判例集=集刑第225号697頁
  • 裁判要旨=
  • 法廷名=最高裁判所第三小法廷
  • 裁判長=伊藤正己
  • 陪席裁判官=環昌一 横井大三 寺田治郎
  • 多数意見=全員一致
  • 意見=なし
  • 反対意見=なし
  • 参照法条=

概要

1969年、大阪市阿倍野区の中学校に教諭として勤務する木下浄が、大阪市教職員組合の役員選挙に立候補した際の挨拶状ならびに木下の後援者たちによる推薦状を、部落解放同盟(解放同盟)矢田支部(東住吉区)が差別文書であるとして糾弾を決定。同教諭と関係者に過酷な糾弾をおこなった。これに対して教諭らは解放同盟役員らを逮捕監禁・強要未遂罪で告訴。解放同盟側は「糾弾権」の存在を主張し争った。

1審大阪地裁は「(糾弾権は)社会的に認められて然るべきもの」として無罪判決、検察側控訴。2審大阪高裁は「監禁行為は限度を超えており処罰に値する」と逆転有罪判決。最高裁は2審判決を支持し、解放同盟側被告らの有罪が確定した。

経緯

事件の背景

部落解放同盟による説明

1971年に部落解放同盟の立場から『部落解放同盟・教宣シリーズNo3「矢田教育差別事件」とは何か』を執筆した[9]師岡佑行は、本事件の背景を次のようにまとめている。

1960年代後半、大阪市では、被差別部落のある公立学校を忌避し、天王寺中学校などの「名門」学校に、本来の学区内居住者でないにも関わらず架空の住民登録を使って通学させる「越境入学」が、部落差別の現れであるとして解放同盟が問題として取り上げ、行政側も解放同盟の指摘を受けて解消に乗り出し、教育行政上の大きな問題となっていた。

行政による調査の結果、学校によっては、現生徒数の半数近くが本来の通学校への転校が必要となるケースも明らかとなり[8]、それに見合う教職員の人事異動も必至の情勢となった。このため教師の間には戸惑いや、問題を提起した解放同盟、さらには解放同盟と協調して越境入学解消に取り組み始めた行政当局や教育委員会、教職員組合執行部への反発も生まれた(教師の中には、自身の子息を越境通学させている例も多く[8]、また、名門校への勤務は、出世へのステップや、当時大阪の教育界で取り沙汰されていた「リベート」「アルバイト」などの「教員利権」の獲得に極めて有利な条件だった[8])。大阪市教組内の共産党フラクションに属する組合活動家は、これを勢力拡大の好機ととらえ、教組が越境問題に取り組むのをサボタージュするよう活動を活発化させ、実際に市教組が定数異動の具体案を提示する執行部提案を中央委員会で否決させるなどの成果を挙げていた[8]

日本共産党による説明
日本共産党衆院議員の三谷秀治は、全解連の生みの親の一人である和島為太郎の伝記の中で、日本共産党地区委員長の台詞を借り、矢田事件の背景を次のように記している。

「党から除名された志賀義雄に追従した反党分子などが市教組の執行部におります。反党分子は矢田中学にもおります。『解同』府連にもおります。かれらは組合内の党員や活動家に攻撃をかけ、市教組の役員から自覚的な活動家を一掃するために『差別文書』事件をデッチ上げたのです。(略)この攻撃を組織したのは解放同盟のなかの反共反党分子と市教組のなかの反共反党分子です。形の上では『解同』府連や市教組執行委員会に対するたたかいになっておりますが、それはかれらが教組や府連という機関を握り、組織の名においてわが党の活動家や民主的な教師を攻撃しているからで、内容においては反共反党分子とのたたかいといえます」[10]

木下挨拶状・木下推薦状

1969年3月13日、大阪市教職員組合東南支部書記次長選挙において、候補者である木下浄(大阪市立阪南中学校教諭、日本共産党員)が下記の立候補挨拶状(木下挨拶状)を提出した。 {{quotation|「組合員のみなさん①労働時間は守られていますか自宅研修のため午後四時頃に学校を出ることができますか。仕事においまくられて勤務時間外の仕事を押しつけられていませんか。進学のことや、同和のことなどで、どうしても遅くなることはあきらめなければならないのでしょうか。またどうしてもやりたい仕事もやめなければならないのでしょうか。②教育の正常化に名をかりたしめつけや管理がありませんか。越境・補習・同和など、どれをとりあげてもきわめて大事なことですが、それにも名をかりた転勤・過員の問題や特設訪問や、研究会や、授業でのしめつけがみられて職場はますます苦しくなります。新指導要領においても同様です。『どんなよいことでも、お上(行政)からきめられたことはダメだ。自ら要求し、自らかちとったものが身になり肉になる』ことをひしひしと思い知らされます」[11][12][13][14]

同じ頃、矢田中学校教諭の岡野寛二(東南支部副支部長)や加美中学校教諭の玉石藤四郎(東南支部加美中学分会長)たち13名の組合員は、木下浄たちへの推薦状を作成し、同支部組合員に郵送した(木下推薦状)。その内容は概略次の通りであった。

「私たちは、組合に対していろいろな期待を持っています。最も民主的に運営されるのが組合であると思っているのに現実的には、現場の組合員の要求がくみあげられなかったり、組合員の要求にまでなっていないものを、ただよいことだからというだけの理由で、よいかどうか討議もされず、下部討議されないまま一方的に押しつけられたりして、現状ではよく混乱がおこります。こういう弱さを克服するため役員選挙を大切にしましょう。そういう意味から東南支部役員選挙で、私たちは自信をもって、次の候補者を推せんします。(以下、東南支部長、書記長、書記次長の立候補者の氏名。)教育者として組合員としてすぐれた活動家です。誠実な現場の活動家です。組合員の立場で考え行動する活動家です」[11]

この挨拶状や推薦状を1969年3月16日頃に入手した解同矢田支部の戸田政義(同支部長)、内山隆(書記次長)、村越末男(執行委員)らは、「差別者木下一派を糾弾する」と題する解同矢田支部名義の書面を作成。その内容は

「あいさつ状は部落差別を宣伝し、部落解放運動に反対し、教師の古い意識を同和教育に反対する基盤として結集することを訴えたのである。推せん状は『ただよいことだけというだけの理由で』として同和教育を中傷し、その実践に水をさそうというのである。あいさつ状と併せてよめばその意図は明らかだろう。木下氏は『進学のことや、同和のことでどうしても遅くなること、教育こん談会などで、遅くなることはあきらめなければならないのでしょうか』というのである。教師の苦しみ、困難さの原因が進学のことや同和のことにすりかえられているのである。具体的には部落解放運動に教師の苦しみの根源があるという恐るべき結論になっているのである。これは人民解放の闘いに水をさし、非難中傷し分裂させ、真の敵を不明にし、差別を温存させる、正に差別者以外の何者でもあるまい。われわれはこうした差別を許せない。この差別の思想と煽動を断固糾弾する」[15]

と非難するものであった。解同矢田支部は、木下が越境入学問題に取り組まないまま「教員利権」を保持し続けようとする姿勢を明らかにしたものと解釈し、挨拶状を差別文書とみなして糾弾会の開催を決定する。そしてその背景には、木下教諭が共産党員であることや、当時先鋭化しつつあった共産党と解放同盟の対立関係があった。

解放同盟矢田支部は3月18日、木下教諭および同僚である推薦人の2人を地区集会所に呼び出して糾弾を行う。その席上「頭をはり倒したいくらいや!」「竹槍でブスッとやるところや」「お前、それでも教師か、頭悪いな」「認めへんのやったら、今晩帰したらんぞ!」などと指弾した。市教組執行委員会や大阪市教委は解放同盟に同調。また木下らも「みとめれば糾弾からのがれられると思って」[16]一旦はこれを差別文書とする見解に同意する発言をおこなった。

木下挨拶状への糾弾について、全解連の中西義雄は

木下浄君のあいさつ状にたいして、「解同」は、「差別文書」などといいがかりをつけておりますけれども、ホンネは、答申から同特法へと、地方自治体の同和行政が拡大されていく、こういう状況を利用して、「同和校」から民主的な教師を追いだし、学校教育そのものを私物化して、追随教師をふやし、利権を追求していく、ここにあったのです」[17]

と分析している。

解放同盟による糾弾

木下らが差別を認める方向でまとまりつつあったかに見えた事態は、共産党大阪府委員会が組織的な指導に乗り出したことで一転した。大阪府委員会は、矢田支部の指摘に同意した木下らを、党員にあるまじき態度として厳しく叱責、この指導を受けた木下らは、1名を除き差別文書ではないと態度を翻した。

再度の糾弾会への出席を約束しながら当日や直前になって欠席を通告するという対応をとり続けた木下とその推薦者たち15名に、矢田支部員らは業を煮やし、4月9日午前10時50分頃[18]大阪市立矢田同和地区解放会館(現・矢田人権文化センター)に拉致監禁し、最盛時では約250名に及ぶ多衆の面前において[19]、深夜まで十数時間に及ぶ糾弾をおこなった。この時、拉致監禁の現場に立ち会った解放同盟員の一人に後の衆院議員上田卓三がおり、上田は「自己批判しない者に対しては、府連の立場で矢田支部とともに糾弾を続けて行く、こういう差別教師には首切りを市教委に要求する」と発言している[20][21]。当時の被害教師の一人である玉石藤四郎(筆名・野々山志郎)は、この時の体験について

「解同から「差別者」のレッテルを張られた私は、勤務中の学校から力ずくで自動車におしこめられ、彼らが自由に使っていた市民館に拉致連行、その末に「糾弾集会」なる群衆のなかに立たされ、私と同じく暴力で連行されていた矢田中学の教師二人とともに屈伏を迫られました」[12]

と回想している。また、この時の解放同盟の脅迫文言は

「高校へ入学したが、英語の成績が悪くて留年となった子供がおる。英語の教師のお前の責任だ」[22]

「今まで、解同が差別やいうて差別やなかったものはない。お前ら白切るんやったらどこまでも糾弾する」[23]

「小学校のとき、わしは行儀が悪いということで、教師から18回も投げられた。そのためあほうになったんや。それは教師の責任や。その教師の仲間がこいつや」[24]

「もの言え、差別者。あほんだら」[22]

被告人泉海節一(解同大阪府連矢田支部書記長)は、玉石藤四郎[25]に対して「お前は部落の人が脚を踏まれている痛さがわかるか、お前の足踏んだろうか」と言って玉石のすぐそばの床をどんと強く踏みつけ、玉石があわてて足を引いたところ、同被告人は「わしが足をあげたら自分の足を踏まれると思ったやろ、こいつは偏見をもっとる。部落のもんは悪い事をすると思とる。みてみい、わしはお前の足を踏んでへんのにお前さがっているやないか。お前は部落のもんこわいと思っているからそないするんじゃ」とどなった。[24]

「(われわれは)差別者に対しては徹底的に糾弾する、糾弾を受けた差別者で逃げおおせた者はない。差別者であることをすなおに認めて自己批判せよ、差別者は日本国中どこへ逃げても草の根をわけても探しだしてみせる。糾弾を受けてノイローゼになったり、社会的に廃人になることもあるぞ、そう覚悟しとけ」[26]

「お前らいつまでたったら白状するのや、お前らは骨のある差別者や、ともかく徹底的にあしたでもあさってでも続いて糾弾する」[27]

「社会的に抹殺してやる」

「こいつら、なんぼ言うても口をききやがらん。お前ら言うようにしてやろうか。お前らの嫁はんや子供呼んで来たら口開くやろ、こいつらかて人間やから、女房可愛いで言いよる」[28]

というものであったことが、のち大阪地裁に認定されている[29]

椅子に座っていた被糾弾者が泉海らに「立て」と言われると、年配者から「座りなさい」と言われ、その言葉に従って座っていると、泉海らに「何じゃ、お前ら座って立て」「こら差別者、立て」などと怒鳴られて立たされた[30]。それでも立たずにいる被糾弾者に対しては、泉海らが「こら立たんかい、何しとるんじゃ」と椅子を蹴って無理やり起立させた[30]。こうして被糾弾者が立ったままでいると、今度は解放同盟員が「なんじゃ、われ、座れ言うてるのに座らんのか」と怒鳴りつけて殴りかかろうとした[30]。すると泉海が制止し、「殴ったらあかんぞ、殴るのはおれだけや、おれは1万円札をおでこにはったら検察庁公認や」と発言した[30]

被糾弾者たちが解放されたのは、翌4月10日の午前2時40分ころのことであった[31]

被害者による刑事告訴ならびに民事提訴

1969年4月19日、金井清・岡野寛二・玉石藤四郎の3教諭が解同矢田支部長ならびに同書記長ら4人(泉海節一・戸田政義・西岡智・上田卓三)[32]を逮捕監禁・強要未遂罪で刑事告訴した(矢田刑事事件[33]。共産党は告訴とともに組織をあげて解放同盟を「暴力集団」と非難する文書の配布をはじめ[8]、解放同盟との敵対は決定的なものになる。5月6日から5月11日にかけて、4回にわたり、木下・金井・玉石の自宅付近に部落解放同盟の署名入りで「部落民を暴力団視する差別教師◯◯を糾弾する」「差別共産党員◯◯を糾弾する」といったステッカーが貼りめぐらされた[34]

1970年6月17日、大阪地検がこのうち2名(泉海節一・戸田政義)を監禁罪で起訴。1971年2月10日、大阪地裁で公判が始まった。大阪地裁の傍聴席を埋めつくした部落解放同盟からの動員部隊は、被害者の証言に対して「差別者、嘘つけ!」などの野次と怒号を飛ばしたが、判事も訴訟指揮をとらず、検事も抗議せず、法廷は無法地帯と化したと伝えられる[35]

この後、挨拶状を差別文書と位置づけていた大阪市教育委員会は、再三の教委の指導を拒み続けた木下たち11名の教員を左遷し、強制研修を命令。1973年7月17日、木下たち8名はこの処分の取消と損害賠償を求めて大阪市を提訴した(矢田民事事件)。

部落解放同盟の組織分裂

部落解放同盟の内部にもこの木下挨拶状を差別と認めない支部があったが、それらの支部は順次排除された[36]

まず、大阪府連は1969年6月29日の大会で堺市、東大阪市蛇草支部らの代議員権を剥奪。ついで両支部長を除名した[36]

1969年9月には、府連は堺支部の19名の支部執行委員の除名を強行[36]。10月には蛇草支部に対しても幹部4名を統制処分にかけ、さらに年末にかけて堺市、東大阪市蛇草、羽曳野市、箕面市の4支部を組織排除[36]。東大阪市荒本、高槻市、富田林市などの支部活動家の除名をおこない、約1000名の同盟員が組織から排除された[36]

刑事判決

刑事裁判の経過
月日 事柄
1969年 4月9日-4月10日 事件発生。
4月19日 被害者の教員たちが解同矢田支部長らを刑事告訴。
5月6日-5月11日 4回にわたり、告訴人の自宅付近に解同の署名入りで
嫌がらせのステッカーが貼られる。
1975年 6月3日 大阪地裁で無罪判決。
1981年 3月10日 大阪高裁で懲役3月(執行猶予1年)の有罪判決。
1982年 3月2日 最高裁が上告棄却。有罪判決が確定。

部落解放同盟側が本件に関する被告人である。

1975年6月3日、大阪地方裁判所(松井薫)は木下挨拶状を部落差別解消を阻害しかねない文書と認定、限度を超えない限り、被差別者による糾弾[37]も社会的に認められるべきもので、「被告人らの行為には、いささか行き過ぎではないかと認められる点がないではなく、今後の自重に期待するものがある」[38]としつつ、木下らの態度にも原因があるとして、支部長らに無罪を言い渡した。これに対し、同年6月11日、大阪地検が控訴。

1976年9月28日、大阪高裁で控訴審が開始(弁護人・山上益朗、松本健男[39])。1980年2月12日、被告人の1人である書記長泉海節一が病没。1981年3月10日、大阪高等裁判所(裁判長中武靖夫)は一審判決同様、木下挨拶状を部落差別を助長しかねない文書と認定、差別を受けた際、部落民が抗議行動を行うことは正当で、かなりの厳しさを帯有することもあり得ると判断しながらも、一連の被告人らの行為には行き過ぎがあり、

「いわゆる差別者に対してその見解を改め、自己批判を求めるだけであれば、本件の如き『糾弾集会』が唯一無二の方法であったとは認めがたく、本件行為が真にやむを得ざるに出でたるものとは到底認定できない。また糾弾が『他人へのみせしめ』の目的でなされるということになれば、糾弾集会という形の糾弾はきわめて有効な手段ということになるかもしれないが、それはいきおい過酷となり、も早私的制裁の域に入るのであり、法の到底容認し得ないところである」[40]

「その他原審及び当審において取調べられた証拠を仔細に検討しても被告人が本件行為に出ることもやむを得なかったもので罪責を阻却するのが相当と認めるに足る資料は見当らない」[40]

として支部長に懲役3月(執行猶予1年)の有罪判決を言い渡した。同年6月18日、弁護団が最高裁に上告。

1982年3月2日、最高裁判所(裁判長伊藤正己)が上告を棄却(弁護人・山上益朗、松本健男、桜井健雄、上野勝、中北龍太郎[19])。これによって被告人らの有罪が確定した。

民事判決

民事裁判の経過
月日 事柄
1969年 4月9日-4月10日 事件発生。
1973年 7月17日 被害者の教員たちが大阪市を民事提訴。
1979年 10月30日 大阪地裁で大阪市に1140万円の損害賠償命令。
1980年 12月16日 大阪高裁で控訴棄却。
1986年 10月16日 最高裁が上告棄却。大阪市の敗訴が確定。

木下教諭らが「原告」、部落解放同盟大阪府連の糾弾・確認に加担した行政「大阪市」側が「被告」である。

1979年10月30日、大阪地方裁判所で原告勝訴。大阪地裁は、木下挨拶状を「労働条件の改善を訴えるもので、差別性はない」と認定。被告大阪市は合計1140万円の損害賠償の支払を命じられる。

1980年12月16日、大阪高等裁判所が一審判決を支持し、被告側の控訴を棄却。

1986年10月16日、最高裁判所が被告側の上告を棄却。原告の勝訴が確定。

行政の対応

法務省は1989年8月4日、法務省権管第280号通達において、「糾弾会は同和問題の啓発に適さない」と解放同盟の「糾弾権」を否定した。

後日談

1973年、木下挨拶状をめぐる意見の対立から広島県福山市で戸手商業高校事件が発生した[41]

1989年に径書房が『長崎市長への7300通の手紙』を刊行した際、同書に収められた矢田事件の被害者の文章[35]が部落解放同盟から「この内容は、解放同盟とその運動に誤解を与え、被差別部落に対する差別と偏見を助長、拡大するものだ。これ以降増刷するものについては、本書より削除することを要求する」と圧力をかけられる事態に発展した[42]。最終的に、部落解放同盟からの抗議の経過を記した小冊子を付けることで同書は刊行を続けることができた[42]

参考文献

部落解放同盟を支持する立場からのもの

  • 部落解放同盟中央本部編『部落解放同盟・教宣シリーズNo3「矢田教育差別事件」とは何か』(部落解放同盟中央出版局, 1971)
  • 部落解放研究所『部落解放運動基礎資料集 第4巻 差別糾弾・行政闘争』(部落解放同盟中央本部, 1981)
  • 部落解放同盟中央本部編『人間として: 矢田教育差別事件の真実と虚像』(部落解放同盟中央本部, 1982.2)
  • 師岡佑行『戦後部落解放論争史』第4巻(柘植書房, 1984)
  • 部落解放研究所編『戦後 部落問題関係判例[解説編]』(部落解放研究所, 1995)
  • 『「同和利権の真相」の深層―何がリアルや!』 (解放出版社、2004年1月、ISBN 4759210229)

部落解放同盟を批判する立場からのもの

  • 三谷秀治『火の鎖』p.405-416(草土文化, 1985)
  • 成澤榮壽編『表現の自由と部落問題』(部落問題研究所, 1993)
  • 部落問題研究所編『「解同」は何をしてきたのか』(部落問題研究所、1994年 ISBN 4829810394)
  • 寺園敦史, 一ノ宮美成, グループK21『同和利権の真相〈1〉』(宝島社, 2003)

判決書全文

  • 部落解放研究所編『戦後 部落問題関係判例[資料編]』p.183-204(部落解放研究所, 1995)

関連映画

  • 『矢田教育差別事件』(1976年。監督は須藤久、製作は矢田部落解放総合計画委員会)部落解放同盟によるプロパガンダ映画。

外部リンク


1969(昭和44)年4月9日、大阪市教組東南支部の役員選挙に立候補した木下浄教諭の挨拶状が、解同大阪府連矢田支部から「差別文書」と一方的に決めつけられ、玉石藤四郎氏ら推薦人3人が多数の解同員により解放会館に拉致監禁され、深夜まで激しい糾弾を受けた。その糾弾の内容は野次・怒号・罵声・恫喝に満ちており、まさに人権侵害そのものであった。
「(われわれは)差別者に対しては徹底的に糾弾する、糾弾を受けた差別者で逃げおおせた者はない。差別者であることをすなおに認めて自己批判せよ、差別者は日本国中どこへ逃げても草の根をわけても探しだしてみせる。糾弾を受けてノイローゼになったり、社会的に廃人になることもあるぞ、そう覚悟しとけ」
「お前らいつまでたったら白状するのや、お前らは骨のある差別者や、ともかく徹底的にあしたでもあさってでも続いて糾弾する」(大阪地裁1975年6月3日判決、判例時報782号23頁より)
玉石氏らはのちに解同矢田支部長を監禁罪で刑事告訴(矢田事件刑事訴訟)。さらに不当な配置転換の取り消しを求めて民事訴訟を起こした(矢田事件民事)。
一方で、解同はこれを厚顔にも矢田「教育差別」事件と称し、この事件を踏絵として全国の各自治体で一斉に「糾弾」という名の犯罪行為を繰り広げていった。
なお、玉石氏は部落出身者の子孫であり、この事件の本質は「部落出身者」対「部落外出身者」という単純な図式の中には収まりきらない面がある。

1975(昭和50)年6月3日、矢田事件刑事裁判の1審判決が大阪地裁で言い渡され、「木下挨拶状は差別的であり、被告人の行為は刑事罰を科すほどではない」と無罪が宣告された。この結果に増長した解同は、「糾弾権が裁判所に認められた」と得意満面で糾弾闘争を強化した。

1979(昭和54)年10月30日、矢田事件民事裁判(配転取り消し請求)の1審で、大阪地裁が「木下挨拶状は、労働条件の改善を訴えるもので、差別性はない」という判断を示した。

1981(昭和56)年3月、矢田事件刑事2審の大阪高裁は、「木下挨拶状は差別助長につながるが、被告らの監禁行為は限度を超えており、処罰に値する」と逆転有罪判決を下した。解同矢田支部長は懲役3月、執行猶予1年。

1982(昭和57)年3月、最高裁が矢田事件刑事2審の判決を支持。被告らの有罪が確定した。

1986(昭和61)年10月26日、大阪高裁が矢田事件1審判決を支持。解同側の有罪が確定。

飛鳥会事件

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/飛鳥会事件

1985(昭和60)年1月26日、大阪府吹田市江坂町2丁目で、山口組系竹中組の竹中正久組長(当時51歳)ら3人を、一和会系組員が射殺。現場は、竹中組長の愛人N(当時31歳)が住むマンション「GSハイム第2江坂」の前であった。Nの部屋の508号室は、解同飛鳥支部の小西邦彦支部長が借り主で、竹中組長も「小西邦彦」を名乗って同マンションに出入りしていた。解同の支部長が山口組の企業舎弟だったのである。
1997(平成9)年9月15日、大阪市東淀川区の解同大阪府連飛鳥支部事務所に銃弾が撃ち込まれるという事件が発生。 
関係者によると、解同飛鳥支部の小西邦彦支部長は、日ごろから山口組系暴力団生島組の生島久次・元組長(本名・高佑炳)の親族の面倒を見たり、射殺事件で病院に運ばれた同元組長のもとに駆けつけるなど、因縁浅からぬ関係にあったという。事実、小西支部長は、日本不動産地所があった同じ大阪駅前第3ビルの地下2階に事務所を構え、大阪・ミナミで生島元組長が経営していた不動産金融業「生島企業」(のちにエスユー企業)所有のモータープールを担保に、「京セラファイナンス」(東京都中央区)から限度額の23億円、「三和ビジネスクレジット」(東京都新宿区)から同じく30億円のカネを借りるなど、ただならぬ関係にあった。 
小西支部長は、おもてむきは「社会福祉法人ともしび福祉会」「財団法人あすか会」の代表理事の肩書きを持ち、東淀川区で現在も保育園などを経営しているが、裏の顔は、元山口組系金田組(解散、金田三俊組長=死亡)の企業舎弟をしていた暴力団関係者だった。 
たとえば、かつて金田組組長と同居していた女性と組んで、「飛鳥解放会館」の用地をめぐる土地ころがし疑惑を大阪市議会で追及されたり、ペーパーカンパニー「野間工務店」のオーナーとして、大阪市発注事業を21億円も請け負い、山口組の資金調達係にもなってきた。 
こうしたことから、解同飛鳥支部への発砲は、中野会と親しかった生島元組長と金銭的に深い関わりがあった小西支部長への、宅見組による報復戦とみられた。

吹田三暴力事件

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/吹田三暴力事件

芦原病院事件

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/芦原病院

ハンナン事件

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ハンナン事件

大阪府同和建設協会談合事件

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/大阪府同和建設協会談合事件

八尾市入札妨害恐喝事件

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/八尾市入札妨害恐喝事件

吹田三暴力事件

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/吹田三暴力事件

八尾市議除名事件

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/八尾市議除名事件

東京パブコ脱税事件

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/東京パブコ脱税事件

1968(昭和43)年1月、当時の高木文雄・大阪国税局長と解同中央本部、大阪部落解放企業連合(略称・大企連)とのあいだに、税務申告に関する7項目の密約が成立。
その内容は、大阪府同和建設協会(略称・同建協)加盟業者など同和地区出身の業者が提出する税務申告書は事実上フリーパス…というもので、解同系業者団体の所得隠し、いわゆる脱税が、国税庁公認のもとにまかり通る大義名分となった。エセ同和出現の原点でもある。

スルガコーポレーション地上げ事件

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2008-03-21/2008032115_01_0.html

2008年3月21日(金)「しんぶん赤旗」

地上げ逮捕の光誉実業

「解同」と接点

大阪・八尾市の認可ゴミ業者 事業は支部が要求

 東京都心ビルの地上げをめぐり、今月四日、「光誉(こうよ)実業」(本社・大阪市東住吉区)の朝治博社長(59)ら十二人が弁護士法違反容疑で逮捕されました。同事件が、大阪府八尾市で波紋を広げています。

 事件は、東証二部上場の「スルガコーポレーション」(横浜市)が東京・麹町の「秀和紀尾井町TBRビル」の取得をめぐり、光誉実業に地上げ資金を提供、違法な立ち退き交渉が行われたというもの。資金の一部が山口組系暴力団に“上納”されたと指摘されています。

 光誉実業は、登記簿によると、一九八四年十月に設立された不動産会社。八尾市の事業系ゴミ収集の認可業者でもあります。

 同市の「事業系一般廃棄物の収集運搬」事業は、「解同」(部落解放同盟)安中支部の要求で導入されたもの(当初七十一社、現在五十一社)。同安中支部は、八尾市発注の公共事業に関連し、二〇〇六年八月、恐喝容疑で逮捕された丸尾勇被告が支部長や相談役を務めました。光誉実業は丸尾被告の肝いりでつくられた「八尾市清掃事業協同組合」にも入っています。

 朝治容疑者は「暴力行為や強要などで二ケタを超える逮捕歴がある」「指定暴力団山口組と密接な関係」などとマスコミから指摘される人物です。

 十三日の同市議会文教産業委員会で、日本共産党の越智妙子議員がこうした事実を指摘し、暴力団員などの排除を定めた市条例施行規則をあげて市の対応をただしました。

 市側は、同社と暴力団との関係を「今回初めて知った」と答弁。「本人も勾留されており、じかに話ができない」と、事実確認さえしていないことが明らかになりました。

 八尾市立障害者総合福祉センターをめぐる疑惑 「虹のかけはし」が法人として認可されたのは、同センター開設直前の04年2月26日。理事長の経歴は不明、法人の実績はないまま、3月市議会に「指定管理者にする」条例案が提出されるなど“手際のよさ”は異様でした。

 同法人の「評議員」(05年度法人調書)には、「解同」安中支部の丸尾勇相談役、佐伯智津子支部長、黒田隆光書記長や、民主系の徳丸義也府議らが名を連ねました。

 ほかにも(1)センター建設は「解同」安中支部の要求(2)建設を受注した企業が丸尾勇被告に数千万円の「地域協力金」を支払う(3)センターの清掃・警備を丸尾被告の妻が取締役を務める会社に委託する―など数々の疑惑が指摘されています。

「妻」が疑惑施設管理

 朝治容疑者の地上げ関与が報じられた東京・六本木の「TSKビル」の一室を所有していた不動産会社「エコロジージャパン」(大阪市)の代表取締役は朝治麻値子氏です。

 「関係は夫婦だとお聞きしています」。十三日の同委員会で、山本裕三副市長は朝治博容疑者と朝治麻値子氏の関係についてこう答えました。

 麻値子氏は、〇四年六月にオープンした八尾市立障害者総合福祉センターの指定管理者である社会福祉法人「虹のかけはし」の理事長でもあります。

 同センター建設をめぐっては、「解同」安中支部の関与など数々の疑惑が指摘されています。

 登記簿によると、エコロジー社が所有していたTSKビルの一室には光誉実業などの根抵当権が設定され、二カ月弱で転売。「(警視庁は)この取引で朝治容疑者が多額の利益を上げたとみている」(「読売」四日付夕刊)と報じられました。

 十七日の八尾市議会保健福祉委員会で、日本共産党の大野義信議員がこの問題を指摘。「指定管理者の資格にかかわる」と市の姿勢をただしました。

 市側は麻値子理事長と面談のうえ、同法人と光誉実業は「何ら直接的な関係はない。双方に関連した社員はいないと聞いた」と答えました。

 しかし、「法人調書」や登記簿によると、「虹のかけはし」の斎藤明美監事は、エコロジー社では監査役を、光誉実業でも取締役を務めています。また、エコロジー社の取締役の一人が、今回、朝治博容疑者とともに逮捕されています。

 この事実を指摘する大野議員に、市側は法人調書さえ調べていないことを認めました。

 田中誠太市長は「新たな事実関係が分かってくれば、それなりの対応を考えなければならない」と調査を約束しました。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2008030402092593.html

役員に検察大物OBら スルガコーポ 地上げ暴力団の資金源か 2008年3月4日 夕刊

 東証二部上場の「スルガコーポレーション」から依頼を受け、弁護士資格がないのにビルの立ち退き交渉を行っていたとして、大阪市の不動産会社社長らが四日、逮捕された。都心部の権利関係が複雑なビルや入居者が多数入るビルを次々と手がけ、業界の注目を浴びていたスルガコーポレーション。検察や警察の大物OBを役員として迎え入れてきたが、反社会的勢力との関係が指摘される会社との取引が浮上したことで、上場会社としての社会的責任が問われそうだ。

 スルガコーポレーションは、一九七二年に現会長兼社長の岩田一雄氏が設立。九五年に東証二部に上場した。ビルの入居者を立ち退かせて更地にして転売する地上げの業態を「不動産ソリューション(解決)事業」と名した。二〇〇七年三月期の売上高は約八百億円。警視庁は、同社の取引が暴力団の資金源になった可能性もあるとみて調べる。

 ある不動産会社の役員は、スルガコーポレーションの手がけた物件は「入居者を退去させる手法が荒っぽかった」と指摘。交渉の難しい「いわく付き」の不動産も短期間で地上げするため、「反社会的勢力との付き合いがあるのでは」と懸念する声が絶えなかった。

 今回事件となった「秀和紀尾井町TBR」ビルでも、逮捕された朝治(あさじ)博容疑者(59)が社長を務める大阪市の不動産会社「光誉(こうよ)実業」がスルガコーポレーションから依頼を受け、「交渉では体の大きな男たちが周囲に座り、威圧された」(立ち退き交渉を受けた当時の入居者)と強引な立ち退きを進めていたという。同容疑者は指定暴力団山口組系有力組織と関係が深いとされる。

 また、同じ東京都千代田区永田町の土地でも〇五年、所有者が知らない間に所有権移転された土地を購入、転売していたことが分かっている。

 こうした手法の一方で、元警察庁生活安全局長の黒沢正和氏、前橋地検やさいたま地検の検事正を歴任した水上寛治氏らが昨年、取締役に就任。

 東京新聞の取材に黒沢氏は、「反社会的勢力と付き合いがある会社と知っていたわけではない。会社自体も知らなかったはずだ」と答えている。

 スルガコーポレーションの大川武男総務部長は四日午前、「光誉実業と付き合いがあったのは事実。取引の内容については、現段階ではお話しできない」と話した。

http://mainichi.jp/select/jiken/news/20080306k0000m040167000c.html

地上げ事件:スルガ社、「プロ」との闇のタッグで急成長

 あの日が事件の始まりだった。

 JR横浜駅に近いビル街にある東証2部上場の不動産会社「スルガコーポレーション」役員室。03年6月ごろ、男はドアを開けるなり「偽の売買契約書が必要だ」と声を荒らげた。それが、弁護士法違反容疑で今回逮捕された「光誉(こうよ)実業」社長、朝治(あさじ)博容疑者(59)だった。

 役員たちはその風ぼうから「堅気じゃないな」と不安を感じた。それでも、岩田一雄社長兼会長(69)=4日社長辞任=は、光誉に交渉を任せた。当時、スルガ社は東京・有楽町の中古ビル(9階建て)を購入し、立ち退き問題を抱えていた。交渉が進まず借入金の金利負担が増し経営を圧迫していた。取引先の不動産業者に頼み込んで、「地上げのプロ」と朝治容疑者を紹介されていた。

 スルガ社は72年、一戸建ての建築会社として出発した。しかし、岩田社長は95年、業界紙に「工事の請負だけで高収益を確保するのは無理だ」と嘆いている。その後、目をつけたのが、都心のビルを購入しテナントを立ち退かせた後に転売するという「不動産ソリューション事業」だった。指定暴力団山口組系組幹部との交際をバックに立ち退きを迫る朝治容疑者は、うってつけの人材といえた。

 両者が初めて手を組んだのは03年8月。東京・渋谷のファッションビル「SHIBUYA109」に隣接する築40年のテナントビル(13階建て)の地上げだった。光誉の名刺を持った男がテナントを一軒一軒訪ね、光誉がスルガ社から所有権を譲り受けたように見せかけた偽の売買契約書を手にすごんだ。「うちが全部やるんだ。早く出て行ってくれ」。このビルは1年8カ月後に取り壊され、スルガ社は転売で億単位の利益をあげた。

 この「味」が病みつきとなり、スルガ社は光誉への依存度を強めていく。03年8月以降都内で購入した11棟のうち、渋谷区や港区など地上げが難航していた6棟で光誉との間で同様の偽の売買契約書を結んだ。都心の一等地では、立ち退きが早く進めば大きな利益につながる。

 スルガ社の売上高は03年からの5年間で2倍となり、07年3月期の連結売り上げは800億円超に急成長した。4日の会見で岩田会長は偽の売買契約書について「(光誉との間で)所有権を仮装していたことは知っていた」と認めた。急成長を担ったのは紛れもなく光誉の力だった。

  ■  ■

 上場企業が暴力団と関係の深い企業を利用した。山口組の東京進出と都心の不動産バブルを背景にした地上げ事件の構図を追った。

毎日新聞 2008年3月6日 2時30分

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20080305-OYT1T00406.htm

虚偽契約書をスルガ了承、立ち退き交渉時に使用

 東証2部上場の「スルガコーポレーション」(横浜市)が取得した都心のビルを巡る弁護士法違反事件で、大阪市の不動産会社社長、朝治博容疑者(59)が立ち退き交渉の際に使っていた虚偽の売買契約書の作成を、スルガ社も了承していたことがわかった。

 スルガ社からビルの所有権を譲渡されたとする内容で、朝治容疑者らはビル所有者になりすまして交渉にあたっていた。警視庁組織犯罪対策4課は5日午前、スルガ社の本社などを同法違反容疑で捜索し、朝治容疑者らによる偽装工作にスルガ社側が加担した経緯を調べる。

 同課によると、朝治容疑者は、立ち退き交渉をスムーズにするため、千代田区の「秀和紀尾井町TBRビル」など5物件の入居者に、「自分たちはビルの所有者」と主張していたが、この際提示していた虚偽の売買契約書を作成するにあたって、同社幹部から決裁を受けていたという。

(2008年3月5日14時39分 読売新聞)

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20080304-OYT1T00379.htm

地上げ逮捕の社長、六本木の暴力団拠点ビルにも食指

 東証2部上場の「スルガコーポレーション」(横浜市)が取得した都心のビルを巡る弁護士法違反事件で、警視庁に逮捕された大阪市の不動産会社社長、朝治(あさじ)博容疑者(59)は、元暴力団組長の活動拠点として知られていた港区六本木のビルの再開発にも関与していたことがわかった。

 このビルは、在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)中央本部の不動産取引に絡んで詐欺罪に問われた元公安調査庁長官らも買収を計画していた。警視庁は、今回の事件の背景に、権利関係の複雑な不動産取引に暴力団が群がる構図があったとみて、六本木のビルの取引の経緯も調べている。

 問題のビルは、約3800平方メートルの敷地に建物6棟が並ぶ通称「TSKビル」。六本木ヒルズと東京ミッドタウンの二つの超高層ビルを結ぶほぼ中間地点に30年以上前に建設され、かつては元暴力団組長が実質上経営する企業が所有していた。現在は再開発のため解体工事が終盤に差し掛かっている。

 不動産業界がTSKビルに注目するようになったのは、このビルを活動拠点にしていた元暴力団組長が死去した2002年ごろから。増改築が繰り返された建物には未登記の部分が点在して所有権が複雑化し、再開発に伴う立ち退き料を見込んだ暴力団関係者らが居座るなどしたため、賃借権や抵当権なども次々に設定された。

 関係者によると、06年7月になって千代田区の不動産会社が、競売で建物の大部分を約252億円で落札した。さらに昨年3月ごろには、落札されていない2部屋(計約190平方メートル)について、元公安調査庁長官、緒方重威(しげたけ)被告(73)(詐欺罪で公判中)らが転売を計画。朝鮮総連から詐取したとされる資金の一部を見せ金として2部屋の所有者側に示し、25億円の買い取り価格を提示したが、最終的に売買は成立しなかったという。

 警視庁の調べでは当時、このうち1部屋の所有権を、朝治容疑者の親族が社長を務める大阪市内の不動産関連会社が所有。その後、この部屋はビル全体を買収した不動産会社に転売され、同庁は、この取引で朝治容疑者が多額の利益を上げたとみている。

 暴力団による地上げの事情に詳しい都内の中堅不動産会社の幹部によると、権利関係が複雑な不動産には、立ち退き料を目当てにした暴力団関係者が居座り、立ち退きを交渉する他の暴力団関係者も、多額の報酬を得るというビジネスモデルが出来上がっているという。この幹部は「TSKビルは、所有権をまとめれば数百億円で確実に転売できる注目の物件。当時、地上げ屋や不動産ブローカーが入り乱れて利益をあさっていた」と指摘している。

(2008年3月4日14時41分 読売新聞)

http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2008030601000424.html

スルガ社長名の文書配布 立ち退き交渉で光誉実業 2008年3月6日 12時47分

 東京都千代田区のビル地上げをめぐる弁護士法違反事件で、指定暴力団山口組系の組織と関係が深いとされる「光誉実業」(大阪市)が入居者へ立ち退きを求めた際、東証2部上場の不動産会社「スルガコーポレーション」(横浜市)の岩田一雄社長(現会長)名の文書を見せていたことが6日、警視庁組織犯罪対策4課の調べで分かった。

 文書には、所有権がスルガ社から光誉実業に移ったことが記載され、組対4課は立ち退き交渉でトラブルが発生した場合でも、スルガ社が責任を回避できるようにするために配布していた可能性もあるとみて、詳しい経緯を調べている。

 調べでは、光誉実業社長(当時)の朝治博容疑者(59)らが入居者に配布していたのは「お知らせ」と題した文書。所有権が光誉実業と、風間勇二容疑者(57)が社長を務めていた不動産会社「共同都心住宅販売」に移ったことになっており、賃料の支払先が光誉実業になることなどが記されていた。(共同)

兵庫県

元津事件・八鹿高校事件

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/元津事件

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/八鹿高校事件

1974(昭和49)年9〜11月、八鹿(ようか)・朝来(あさご)暴力事件が兵庫県南但馬地方を震撼させた。これは、南但馬に誕生したばかりの解同丸尾派がその勢力拡大のため、暴力主義と利権あさりの体質を露呈し、南但馬の自治体や学校教育現場をその支配下におさめるべく、空虚で観念的な朝田「理論」と解放教育論をふりかざして暴力と恫喝の限りをつくし、多数の住民を恐怖のどん底に叩き落とした事件であり、起訴された事件だけでも8件、被害者数200余名にたっする一大暴力犯罪であった。
11月22日の八鹿高校事件は、そのなかでも最大の事件である。これは、兵庫県養父(やぶ)郡八鹿町の県立八鹿高校で、生徒が学内に部落解放研究会をつくりたいと要求したことを口実に教育への介入をはかった解同が、抵抗する教職員集団(同校のほぼ全員)に対し、彼らを校内に拉致監禁したうえ、「糾弾」と称する凶悪・凄惨・陰湿な集団リンチを加え、うち48名に瀕死の重傷を含む傷害を与えた(入院も29名に達した)事件である。教育の現場が流血の惨状、阿鼻叫喚の巷と化した。主犯丸尾良昭らが逮捕され、監禁(致傷)・強要・傷害の罪で起訴された。解同の暴力糾弾の頂点を示した事件だが、解同タブーに支配された一般のマスコミは警察発表をごく簡単に伝えただけだった。

1983(昭和58)年12月14日、八鹿高校事件刑事1審判決で、神戸地裁が、解同の丸尾良昭被告人ら13人に有罪判決を下した(懲役3年〜6月、執行猶予つき)。「糾弾の手段方法は社会的に相当と認められる程度を明らかに越え、被害結果も甚大で、法秩序全体からみて可罰的違法を優に肯定出来る」と。

1988(昭和63)年3月29日、八鹿事件の刑事裁判2審判決。大阪高裁は、解同の丸尾良昭被告人らに対し、1審に続いて有罪を宣告した。

1990(平成2)年3月28日、八鹿高校事件の損害賠償請求の民事裁判で、1審の神戸地裁豊岡支部が16年ぶりに、解同の丸尾良昭被告らに対して約3000万円の罰金の支払いを命じた。 
判決では「糾弾権は実定法上何ら根拠なし」と言明され、これをもって解同が固執する「糾弾権」なるものの法的根拠は完全に否定された。
11月30日、八鹿高校事件の刑事上告審で最高裁(第1小法廷、角田禮次郎裁判長)が大阪高裁の有罪判決を支持。これによって、解同の丸尾良昭被告人ら13人の刑が確定した。

1990(平成2)年11月30日、八鹿高校事件の刑事上告審で最高裁(第1小法廷、角田禮次郎裁判長)が大阪高裁の有罪判決を支持。これによって、解同の丸尾良昭被告人ら13人の刑が確定した。

篠山町連続差別落書き事件

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/篠山町連続差別落書き事件

1983(昭和58)年8月、兵庫県多紀郡篠山町(現・篠山市)で、解同中央糾弾闘争本部長の車などに、スプレーで「ヨツコロセ」などと書かれた落書きが発見され、大騒ぎになった。
解同篠山支部は行政闘争の方針を決めたが、やがて落書きは支部長の仕業ではないかとの疑惑がささやかれるようになった。支部長が「この頃支部の活動が盛り上がらないので、差別落書きを書いたらどうか」などと発言していた事実も判明した。
その後もさらに続々と、支部長が犯人であることを示唆する証拠が出てきた。ところがこの事件は84年3月、最悪の形で終結してしまった。疑惑がいっそう深まる中、この支部長がガス自殺を遂げてしまったのである。

部落ツアー

「ひょうご部落解放・人権研究所」の企画として『石元清英・上杉聴と行く〜神戸/光と影のフィールドワーク』と題し、石元清英(関西大学)、上杉聴(大阪市立大学)は番町部落、新川部落を参加者に案内している。 [43]

奈良県

1989(昭和64/平成元)年11月11日、奈良県天理西中学校で、解同県連書記長らが反解同派に集団暴行を加え、6人が負傷、車4台が破損。全解連は第2の八鹿高校事件として抗議した。 

奈良市部落解放同盟員給与不正受給事件

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/奈良市部落解放同盟員給与不正受給事件

岡山県

1985(昭和60)年11月、解同岡山市西大寺協議会宿毛支部長が、他人の名義を勝手に使い、同和対策事業の低所得者住宅整備資金給付制度用の住宅補修資金の給付申請書を岡山市西大寺支所へ提出、2回にわたり約150万円を詐取した疑いで、岡山県警に逮捕された。 

広島県

戸手商業高校事件

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/戸手商業高校事件

八次小学校事件

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/八次小学校事件

徳島県

 1997(平成9)年 9月4日、徳島市の職員互助会が実施した海外旅行にからむ背任事件で、解同徳島県連最高幹部の息子が逮捕された。逮捕されたのは、互助会役員で市職員労働組合書記長の井上直樹(37歳)である。 
 井上らが逮捕された容疑事実は、シンガポール旅行に絡む背任であった。水増し額438万円の一部は、井上容疑者の個人的な海外旅行に流用されていたことも露見した。その後の捜査で背任額は海外旅行4回分、約1200万円にも上ることが分かった。 
 井上らの初公判では、立件されてはいないものの、井上がほとんどの旅行で代金を水増しし、その総額は3500万円にも及ぶことが明らかになった。そしてそのほぼ全額が井上被告の懐に流れていたという。まさに、互助会を食い物にしていたとしか言いようがない悪質ぶりである。 
 徳島市の職員互助会の保養費は、年間総額なんと数千万円。1997年度の内訳は、アメリカ西海岸へ52人で1029万6000円、東京ディズニーランドへ178人で1836万5000円、北海道・トマムスキー場へ57人で812万円といった具合である。同年度決算によると、これらを含む保養費総額は約9281万円。実に、支出総額約2億5108万円の約37%を占める。 
 しかもこの数字は、互助会事業の問題が表面化して中止になったハワイ旅行の分を勘定に入れていない。2月に予定されていたこのハワイ旅行を含む保養費の当初予算は1億561万円に上り、1994年度の7362万円に比べると、わずか3年間で1・4倍にもふくれあがっているというありさまだ。 
 この保養費がどれだけ異常かということは、他の四国3県都の同様予算をみれば明らかだろう。 
●松山市…総事業費約3億765万円のうち約5301万円(約17%) 
●高松市…同約8400万円のうち約3990万円(約48%) 
●高知市…同約1億7612万円のうち約1567万円(約9%)
 これらに比べて、徳島市の保養費が群を抜いているのが分かる。 
 1997年度だけで国内外へ9回を数えた旅行事業の中身も際立っている。松山と高松の両市は、指定保養所での宿泊費補助程度で、高知市も国内旅行のみ4回。これに対し、徳島市職員互助会事務局の同市職員厚生課は「以前に在職死亡が続いた時期があり、元気回復のための事業や福利厚生の重要性が見直されたため」と説明するが、これら事業費の大半が、市財政からの交付金という公金で賄われている実情をみれば、市民から理解を得ることは難しい。1997年度の同互助会決算によると、交付金1億8561万2141円に対し、会員である職員の負担金総額は5072万7218円。交付金の割合は78・5%にも上っている。 
 交付金、職員負担金の推移をみると、1970年度で交付金819万円に対し、職員負担金417万円。これが、1989年度には交付金が1億円を突破。交付金は、その後も年間数百万〜数千万円単位で増え続けており、1970年度と1997年度を比較すると、交付金が22・6倍に膨れ上がっているのに対し、職員負担金は12・1倍にすぎない。 
 民間労働者が長期不況にあえぐ中、異常ぶりが目立つ徳島市のケース。この事件の中心人物である井上とは、どのような男だったのか。 
 市役所内部では、組合書記長とはいえ、互助会の中では一幹事にすぎない井上の発言力や影響力の大きさを指摘する声が多かった。元市幹部らは、井上が組合交渉の場でも突出した影響力を持っていたと証言する。市役所での井上の綽名は「殿」あるいは「影の市長」。粗暴な性格の彼は、自分の要求を通すためなら手段を選ばず、徳島市長でさえ井上の言いなりだったという。「怒声が飛ぶことは日常茶飯事。他の職員たちが大勢見守る中、組合側と理事者側の意見が歩み寄らないことを理由に井上容疑者から胸ぐらをつかまれ、どう喝されたことも…」。その場に居合わせたある職員も「組合の要求通りにならないと怒声を張り上げていた」と話した。「勤務先の市文化センターにほとんど出勤していない」「労使交渉の場で部長クラスを深夜までつるし上げる」「人事異動や採用にまで権限を持っているといううわさも」。そしてこれらは職員の間では公然の秘密として語られていた。 
 市はカラ出勤については調査の結果、ようやく認めた。しかし労使交渉の席での理事者に対する乱暴行為や人事介入疑惑については「確認できない」「そのような事実はない」として、かたくなに口を閉ざしたまま。市幹部は、ほとんどの職員が指摘していることを「知らぬ」とシラを切り通すが、カラ出勤ひとつを取ってみても、直属の上司だけの判断で許されていたとは考えにくい。上層部が黙認していた「市ぐるみ」の事件だったのではないかとの疑いは依然として残る。 
 徳島地検は、「市政全般において井上が強大な影響力を持っていた」とまで指摘した。 
 「解同万能」の公務員の世界では、解同の実力者の息子に逆らうことは難しい。解同関係者の不正行為には見て見ぬふりで自己保身を図る——という構図が浮かんでくる。この事件は単なる背任事件ではなく、解同関係者が解同タブーの力を借りて、市民の血税を食い物に醜く肥りつづけてきたありさまを、まざまざと露呈したものといえる。
 1999(平成11)年 1月、解同徳島県連最高幹部の息子が背任容疑で逮捕された。逮捕されたのは徳島市体育振興公社事務局次長の井上雅史(41歳)。1998年9月に「職員互助会事件」で逮捕された井上直樹の実兄である。弟の直樹が「影の市長」と呼ばれていたのに対して、兄の雅史は「裏の教育長」と呼ばれていた。解同の威光を笠に着て兄弟で市政に君臨し、これを私物化していたのである。 
 この事件は、公社が管理運営する市陸上競技場の芝管理業務に関して、実際には公社職員がおこなっていながら、井上雅史の前妻の父が経営していた工務店と委託契約を結び、570万円を支払って公社に損害を与えた——というもの。 
 架空発注を受けた工務店は、芝管理とは無縁の土木建築業者でありながら、1997年度に初めて同業務の委託を受けたという不自然ぶり。しかも容疑内容は、芝管理業務を工務店に委託しながら公社職員が代行していたという単純さであり、市が調べれば、その異常さはすぐ判明するはずだった。 
 問題の工務店は、1996年度の公社の施設修繕費3220万円のうち9割を受注していた。いわば、この背任事件は氷山の一角にすぎない。 
 1998年に徳島市政を揺るがした「職員互助会事件」でも井上直樹に対する市幹部の及び腰ぶりが浮き彫りになった。兄弟の犯行とはいえ、その手口は酷似している。井上兄弟の事件の背景に潜んでいたのが、解同に対する徳島市行政の屈服と追随の問題であることは、あまりに明白であった。
 1999(平成11)年 5月14日、徳島地裁が川島町議会に対し、日出和男議員(無所属)への除名処分の取消を命じた。 
 日出議員は、「解同はエセ同和行為」と議会で批判したために町議会から不当に除名され、川島町議会を相手に除名処分の取消を求めていた。今回の判決は、この求めに対して徳島地裁が日出議員の訴えを全面的に認め、解同の行為が「えせ同和といわれても仕方ない」と明確な判断を示し、除名取消の判決を下したものであった。弁護団声明は以下の通りである。 
「   声明 
 本日徳島地裁は、川島町議会の同議会議員日出和男氏に対する除名取り消の判決を言い渡した。日出議員に対する除名処分の理由は、議会での質問で解放同盟(以下解同という)森本一族の不正、不当な利権あさり、町への人事介入に対し「えせ同和行為」であると厳しく指弾したことが無礼な差別発言であるということにあった。しかし、日出発言が的確であったことは、徳島県警の森本一族に対する検挙などその後の経緯によっても余りに明らかである。 
 同町議会の除名処分は町、議会が解同森本一族と癒着し、そのいいなりなってきたこと、解同への批判は許されざるものとする解同タブーに支配されていることによるものである。 
 それは議員の議会発言を否定する点で、議会制民主主義への挑戦でもあった。 
 本日の判決は、日出発言が正当でありその除名処分違法なものとして取消したもので解同に対する批判の自由を認め、民主主義を護ったものとして高く評価することができる。 
 日出除名についてはすでに執行停止に関して、高松高裁、最高裁判所において違法であるとの判断がなされ確定している。 
 私達は地裁判決がなされた現在川島町議会がいたずらに抗争することを止め控訴を断念するよう強く求めるものである。川島町議会は議員が力をあわせ、解同森本一族によって喰い物にされてきた町行政のゆがみを正すことに全力を挙げることが急務である。 
 川島町議会が地方自治の精神にのっとり住民の期待に応え、本来の責務を果たすよう心から要望する。 
 右声明する。 
 一九九九年(平成十一年)五月一四日 
    日出和男除名処分取消訴訟弁護団」 
 解同の森本一族がおこなった不正行為は次のようなものである。 
 1.一族の経営する森本工務店で町の公共事業を独占したこと。さらに、競合する後藤田工務店(日出除名にただ一人反対した後藤田議員の兄が経営)を排除する目的で町や議会に圧力を行使し、議員の兼業禁止を三親等にまで拡大する決議を議決させたこと。 
 2.解同関連の町外の清掃業者を引き入れ、町内業者を圧迫していること。 
 3.解同幹部が差別発言をでっちあげて町職員の人事に介入したこと。 
 まず1について。議会側は、日出氏の指摘に対して「三親等の決議は議員が自発的におこなったもので、解同の圧力によるものではない」と言い張っていた。しかし議会の記録には、議員がひとりひとり解同の事務所に呼び出されてくだんの決議をするよう約束させられたことが書かれている。この事実を弁護士が指摘し、「解同の圧力はなかった」という主張の嘘を暴くと、議長は答弁できなくなってしまった。 
 次に、2について。川島町も参画している阿北環境整備組合の他の町村では町内業者に仕事を発注しているが、解同幹部の経営する2業者だけが、町外業者であるにもかかわらず例外的に仕事を貰っていた。弁護士がこのことを資料に基づいて追及すると、議長は「知りませんでした」というばかりで、一言の反論もできなかった。 
 第3の問題に対して追及されると、議長は「人事介入については、私白身は確認していない」と立往生してしまった。 
 弁護団が「国の審議会が言っているエセ同和行為とはなにか知っているか」と質問したのに対しても、議長は「読んだことはありますが」と口ごもるばかりで内容を説明することはできなかった。「エセ同和」という言葉の意味もわからぬまま日出氏を議会から追放しようとした不見識さと理不尽ぶりを見せつける結果となった。 
 弁護士らの追及に議長は「頭のなかは真っ白」としどろもどろ、「水をのませて下さい」と休憩を求めるなど答弁不能で茫然自失状態。議会と解同の癒着ぶりを見せつける一幕であった。 
 日出氏は、今回の裁判の勝利判決に「私の議会での発言が間違っていなかったことが裁判所に認められてうれしい。同時に、こんな不当な処分をおこなった議会に対する怒りもあらためてわきます」「解同タブーを打破し、間違った同和行政を正すために全力をあげたい」と決意を表明した。 
 また、日出氏は議会の除名処分の不当性を訴えて、県知事に審決の申し立てをしたが、解同べったりの圓藤知事は、まともに調査も審理もしないまま冷酷に棄却したといういきさつがあった。今度の地裁の判決によって圓藤知事の責任が問われる事態となった。

高知県

解同高知市協「差別手紙」事件

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/解同高知市協「差別手紙」事件

1994(平成6)年1月初め、解同高知市連絡協議会事務局のポストに「差別書簡」が送られてきた。内容は同市内にある高知市立特別養護老人ホーム福寿園にかかわるもので、解同では、手紙に福寿園の内部事情が書かれていたことを理由として、犯人は同園の職員と断定する。 
高知市も、同園の職員が書いた可能性があると判断し、全職員に個別の面談をするなどの調査を行った。 
ところが市の内部調査が始まってからしばらく経ち、前年まで福寿園に勤務していた高知県のある係長が、手紙を書いたのは自分であると自首してきた。しかもこの係長は、これまでに解同と結びついて職場の「差別落書き」事件などを取り上げ、職場で部落問題の学習サークルを作ったりしてきた熱心な活動家だった。 
自首したのは、市の調査が筆跡鑑定などにまで及びはじめたことで追い詰められた結果と見られている。解同と一緒に活動してきた人物が、なぜみずから「差別書簡」を書かなければならなかったのか。係長は次のように動機を語っている。 
「(市に)人権条例を制定させるには、いろんな差別事例が必要だった。…部落解放のためにやった」 

一ツ橋小学校事件

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/一ツ橋小学校事件

1992(平成4)年3月30日、高知地裁で一ツ橋小学校部落民宣言強要事件の判決が言い渡された。 
「1 被告らは、原告に対し、各自金60万円及び内金50万円に対する平成元年7月26日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。 
2 原告のその余の本訴請求及び被告らの反訴請求をいずれも棄却する。 
3 訴訟費用は、本訴反訴を通じ、これを5分し、その3を被告らの、その余を原告の負担とする」 
との内容。この判決は、94年8月8日、高松高裁で確定した。

モード・アバンセ事件

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/モード・アバンセ事件

https://web.archive.org/web/20030415042155/http://www.internet-times.co.jp/news/news130312/seikei-1-130312.html

 高知県の「モード・アバンセ社」の問題は、直接解同幹部が関係しています。問題の発端は、解同県連が91年、対県交渉で「同和縫製工場の高度化、協同化」を要求したことに始まります。これにたいし県は、そのことは共通の課題だと認識しており、今後その可能性をともに検討したいと約束しました。 
 これを受けて同和関連の縫製工場を経営するなどしてきた安原繁氏が94年、みずからが経営する縫製工場五社をまとめて協業組合モード社を設立し、県から中小企業高度化資金約14億円の有志を引き出します。 
 しかし、出発点からでたらめでした。「中小企業団体の組織に関する法律」は、協業組合の設立には、組合員がそれぞれ出資し、一組合員の出資比率が50%未満でなければならないとしています。しかし、モード社はすべて、安原氏が出資していました。さらに安原氏は、協業化前の五社の負債約5億円をモード社に持ち込まないという県との約束も破って負債を持ち込みました。 
 モード社の架空の用地造成や社屋の建設費の水増しもあったことが、後の百条委員会の調査で明らかになっています。 
 こうしたずさんな実態も手伝って、14億円もつぎ込みながら96年、モード社は操業直前に倒産の危機に直面します。あわてた県は、秘密裏にモード社のみを対象にした融資制度を作り、当時の山本卓副知事が決済し、12億円を直接貸し付けました。これがやみ融資です。 
 県議会に設置された百条委員会は、こうした一連の経過を調査しました。 
 解同県連の竹下義喜委員長、村越比佐夫副委員長は、モード社の協業化構想を推進してきたにもかかわらず、百条委員会での証言で関与を否定しました。県議会は全会一致で両氏を偽証で告発しました。 
 架空の用地造成や社屋の建設費の水増し問題でも、計3億円余の高度化資金の詐欺事件として百条委員全員が安原氏らを刑事告発しました。県警と高知地検はこれらの告発を受け、モード社本社や解同県連事務所など三十数カ所を家宅捜査しました。解同県連は、竹下、村越正副委員長をはじめ役員が総辞職しました。 

 これらの問題は橋本大二郎知事になんら知らされることなく、副知事以下で進められました。山本元副知事は、百条委員会の証言で知事の判断を仰がなかったと述べています。 
 橋本知事は、深刻な教訓を受け、昨年六月議会の所信表明で同和対策事業のあり方を見直す考えを表明しました。行政改革でも、同和行政の見直しを掲げました。

福岡県

1983(昭和58)年12月、福岡県警は、解同赤池連協幹部ら2人を恐喝容疑で逮捕、その父親の元同町議会副議長、元解同赤池連協副会長を同容疑で取り調べた。この親子は、赤池町土地開発公社事務局長に対し、自分たちの土地でもない国有地の一部を買い取らせようと「境界も違う」などと言いがかりをつけ、アルミ製の灰皿を投げつけるなど乱暴、「道路に杭を打って通れないようにするぞ」などと脅し、土地買い上げ代金として30万円を脅し取った疑い。それまでにも「国有地の払い下げを受ける予定だから、同和住宅を建設せよ」などと脅し、すでに自分たちが売っていた土地などの買収を迫り、多額の現金を脅し取った疑いも出ていた。 
1985(昭和60)年 12月、福岡県直方市の議会で、市の発注による指名競争入札落札の上位一覧表にある業者名の公表を市の側が拒否したため、決算審議が混乱に陥った。けっきょく公表することになったが、84年度土木・建築両工事を落札した上位17社のうち13社が、解同員らの経営する土建業者によって占められていることが発覚、市の同和関係業者への優遇策が、一部業者に偏る不公平を生んでいると、295の指名登録業者から批判の声が挙がった。解同員10、全日本同和会員3の計13社が、土木・建築2部門の上位10社の請負高18億5092万円のうち、84%に近い15億5901万円を受注していたのである。この18億円の工事額のうち地域改善対策事業は55.5%の10億5070万円で、地対事業だけでなく、一般工事の発注も同和関係業者に偏っていることがわかった。 
直方市では、84年12月の市議会でも、総事業費の3割を同和団体幹部の経営による3社が集中的に受注していることが指摘され、傍聴の同和関係者らの野次と怒号で本会議が流れ、機動隊を導入してやっと決算が認定されるという事態が発生しており、市が初め公表を拒否したのは、ふたたび同様の事態が発生することへの懸念からだったという。

小郡中学校校長糾弾・変死事件

小郡中学校校長糾弾・変死事件

北九州土地転がし事件

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/北九州土地転がし事件

1981(昭和56)年6月16日、北九州市のローカル紙「小倉タイムス」が「北九州土地ころがし事件」をスクープ、解同小倉地区協の木村書記長が土地ころがしで巨利を得ていると暴露した。
この事件は、北九州市が同和住宅建設などのために土地を買い上げる前、地主から第三者のもとにその土地の所有権を移し、10ヶ月〜半年程度が経過したところで、2〜7倍で市に買収させる、いわゆる土地ころがし行為のパイプ役として、市の職員や解同小倉地協の木村書記長らが暗躍していたというものであった。78年から79年ごろにかけてのことである。浮かんだ疑惑は10数件。第三者に転がり込んだ差益は10数億円にも上るとされた。しかも、市が買い上げた土地の大半は、数年経っても遊休状態のままになっていた。その一方で、西日本最大規模の被差別部落といわれる約1800所帯の北九州市内北方地区の環境改善が全くの手つかずであるなどの、行政のいびつさを露呈した。この土地疑惑問題での紛糾がつづいているさなか、別の解同地協幹部による公共事業の入札や教育人事への介入、さらには土地転用問題で苦情をつきつけた解同地協前役員が、北九州市の同和対策課長を折り畳み椅子で殴りつけて負傷させ、逮捕される事件も起こった。

立花町連続差別ハガキ事件

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/立花町連続差別ハガキ事件

自由同和会は以下のように報じている。

部落解放同盟員が部落差別をねつ造

部落解放同盟が部落差別の根深さ厳しさの表れと位置づけていた、福岡県立花町の「連続差別ハガキ事件」の犯人が7月7日逮捕された。逮捕されたのは、被害者とされていたA氏であったことから全国に衝撃が広がった。事件の概要は、平成15年12月から今年の1月までに合計44通の匿名による差別的内容のハガキや封書がA氏の勤務する立花町や関係機関に送られたもの。

(略)

部落解放同盟は、逮捕された直後の8日に出した緊急声明では、長時間にわたる取り調べで自白したとして、いかにも「冤罪」であるかのような内容であったことから、同盟内部の良識派などから批判されたことで、7月22日に開催された福岡県連第66回定期大会において、「第1次見解とお詫び」とする文書を公表した。

(略)

部落差別の現状を、いまだに厳しく根深いものがあると、差別を強調している間は、差別のねつ造事件を産む土壌があることを理解しないと、再発の防止にはならないであろうと思われる。

福智町贈収賄事件

http://www.asahi.com/sp/articles/ASJ5L3QMMJ5LTIPE00H.html

福智町元課長を収賄容疑で再逮捕へ 同和団体に便宜か

2016年5月18日12時19分

 同和団体への助成金に対し便宜を図る見返りに現金を受け取ったとして、福岡県警は18日にも、同県福智町の元人権・同和対策課長、鈴木秀一容疑者(61)=詐欺罪で起訴=を収賄容疑で再逮捕する。捜査関係者への取材でわかった。

 また鈴木容疑者に現金を渡したとして、元福智町議で部落解放同盟福智連絡協議会委員長の原田正容疑者(86)=同=についても贈賄容疑で再逮捕する。

 捜査関係者によると、鈴木容疑者は同協議会への町の助成金を減額しない見返りに、原田容疑者から現金約10万円を受け取った疑いがあるという。町の説明では、鈴木容疑者は助成金の交付の決裁に関わり、同協議会には昨年度、約1100万円が支給されていた。(稲垣千駿)

原田正元町議の顔写真は福智町のサイトから閲覧できる。

http://www.town.fukuchi.lg.jp/pdf/kouhou/070601/p08_09.pdf

その他

1988(昭和63)年6月17日、リクルート事件。株譲渡の政界波及として、宮沢蔵相・竹下首相・中曽根前首相ら政府自民党の実力者や野党議員の名も登場。11月8日、リクルート疑惑で、解同の上田卓三議員(社会党)が辞職。上田は69年の矢田事件で拉致監禁の現場に立ち会った暴力糾弾の推進者であった。
1991(平成3)年解同が全解連と部落問題研究所を名誉毀損で京都地裁に提訴。 

1992(平成4)年3月5日、解同が全解連と部落問題研究所を提訴した件で第1回口頭弁論が開かれた。解同がこれまで数々の暴力事件や反社会的行為に関与し、しかもみずからの誤りを認めて謝罪することさえしていないことは「通告文」のとおり事実であったが、当時の解同委員長・上杉佐一郎はこの日の第1回口頭弁論で意見陳述をおこない、提訴の理由を「事情の良く判らない海外の関係者に、あたかも部落解放同盟が暴力団体であり、利権団体であるかのような宣伝を繰り返し行ったことです」と語る厚顔ぶりを露呈した。なお、この上杉佐一郎はかつて交渉の席で福岡県知事に暴力をふるい、警察へは身代わりとして部下に出頭させたという過去の持ち主である。 

 1994(平成6)年 10月6日、解同が全解連および部落問題研究所を名誉毀損によって告訴した件で第5回口頭弁論。解同による裁判官忌避のせいで1年7ヶ月も引き延ばされたあげくの裁判再開であったが、口頭弁論の直後、解同は「目的を達した」という名目で急に提訴を取り下げてしまった。「目的を達した」というのは、おもてむきには1993年に国連NGO委員会が「解同の暴力は日本国内で解決されるべき問題である」という判断のもとにIMADRを国連NGOとして登録したことを受けての発言であったが、実際にはこの裁判は被告側が解同を圧倒する方向で進んでいたため、裁判を続けることで解同側の立場が不利になることを恐れての告訴取り下げであることがうかがえた。この告訴取り下げを受けて、部落問題研究所は以下の「見解」を発表して解同を弾劾した。 
 「解同にとっては裁判に勝訴する可能性はまったくなく、裁判をこれ以上継続すれば、敗訴によって解同の暴力・利権体質が改めて確認され、解同の国際的信用は失墜し、今後の国際的な策動にも大きなダメージを受けることにもなりかねなくなったため、“提訴”を取り下げざるをえなくなったのである。しかしいかなる理由づけをしようとも、自ら“提訴”しておきながら、それを取り下げるということは、“名誉毀損”の事実がなかったこと、したがって暴力・利権集団であることを解同自らが認めたことを意味しており、解同側の全面的な敗北宣言である」 
1994(平成6)年8月、「こぺる」誌上で解同の代表的理論家である大賀正行氏(部落解放研究所研究部長)が次のように発言した。 
「知らん人は解放同盟は人権に詳しい人の集まりと思っている。実態を知った途端に失望するわな、何やと。こんな人間が部落解放とか人権を叫んでいるのかと。だいぶバレてると思うけど(笑)。特措法以後(同和対策事業特別措置法。1969年制定)の運動は解放運動かいなと思う」
 1991(平成3)年 11月29日、解同が全解連と部落問題研究所を名誉毀損で京都地裁に提訴。解同の主張は、全解連と部落問題研究所が国連NGO委員会などに対して送った「通告文」や『日本人権情報』が解同の名誉を著しく傷つけた、よってThe New York Times紙などへの謝罪広告掲載と慰謝料支払いを要求する、というものであった。 
 解同によって問題とされた「通告文」は、解同が結成し国連NGOに登録申請した「反差別国際運動」(略称IMADR)に関する内容。国連のめざす自由と人権の擁護を語る資格は解同にはないという事実を裁判の判決書など具体的資料を添えて明らかにし、国連NGO委員会に対してIMADRの不認可を求めたものである。「通告文」はこう述べている。 
「「解同」の「差別糾弾」とは、自分に都合の悪いもの、気にくわないものはすべて差別だとする恣意的な「差別」判断にもとづき、国民の人権や人格をふみにじり、拘束して「解同」の言い分を受け入れるまで「確認」をおこない、脅迫・恫喝によって一方的に「糾弾」するもので、多数をたのんで屈服させ、つるしあげる集団的犯罪行為であり、法治国家では許されない私的制裁以外の何物でもないものです」 
 この通告文を受け、1991年には国連NGO委員会が「解同が暴力に関与している事実がある」と正式に認定。こうして、IMADRを国連NGOとして認めるかどうかの決定は、2年後の審査まで保留とされた。

論考

部落解放同盟員の「つばめ次郎」氏はツイッターで以下のように述べている。

https://twitter.com/bluehearts2016/status/811733695388217344

八鹿高校差別事件を当事者の視点から真実を突きつけています。
2002年の特措法失効後から、『同和利権の真相』がベストセラーに。そうして、「同和利権」=「解放同盟の運動に問題がある」=「差別される側に原因がある」=「自分たちの言動は差別ではない」と、差別のハードルが下がっていく。 

https://twitter.com/bluehearts2016/status/785192759627960320

それでも、彼は気になるから、ネットで「同和問題」「部落差別」で検索すると思う。「同和利権」「『解同』暴力集団」「糾弾・リンチ」のなどの、差別的な言葉が検索上位に。「私は、あんたみたいに部落の勉強してない。だから、同和利権とか、そんなこと聞かれても、答えれない。」と涙していた。

このようにして「つばめ次郎」氏は結婚差別の原因が部落解放同盟による同和利権、糾弾(集団リンチ)にあると証明すると同時に、同和利権や糾弾を「告発した側」が差別者であると責任転嫁している。 なお「糾弾」とは部落解放同盟が差別者と認定した相手に対する暴力、傷害を是認する言葉として用いた言葉である。[44]八鹿高校差別事件のような集団暴行事件を追認しながら「糾弾」を差別用語扱いするのは、部落解放同盟ならば集団リンチや暴力も許される、批判に対しては「差別」と言っておけば不正も許されるという特権意識の現れであろう。

出典

  1. 一ノ宮美成,グループK21「同和利権の真相2」
  2. http://jigensha.info/2015/12/18/buraku-arakawa8/
  3. http://www.labornetjp.org/news/2007/1227wsf/
  4. 東上高志『川端分館の頃』p.156。
  5. 「京都新聞」1990年5月~6月「検証・野洲中学校連続差別事件」
  6. 京都市教職員組合「同和問題討議資料」
  7. 『大阪同和帝国の正体』
  8. 8.0 8.1 8.2 8.3 8.4 8.5 師岡佑行『戦後部落解放論争史』第4巻 柘植書房、1985年
  9. 師岡佑行『戦後部落解放論争史』第4巻、p.300。なお諸岡は同書のまえがきで「私は抗争、論争の渦中に一方の陣営にあって、第三者的立場に居合わせることはなくなる。つよい直接的な愛憎なしにこの時期の資料を手にすることができないし、どこにも記されていない思い出が、二重、三重に重なってくる」とも述べている。
  10. 三谷秀治『火の鎖』p.412(草土文化, 1985)
  11. 11.0 11.1 部落解放研究所編『戦後 部落問題関係判例[資料編]』p.191。
  12. 12.0 12.1 成澤榮壽編『表現の自由と部落問題』(部落問題研究所、1993年)所収 野々山志郎「『長崎市長への七三〇〇通の手紙』事件と今後の課題」
  13. (この挨拶状について、大阪市立矢田小学校に勤務する部落解放同盟シンパの教師は、子供会の学習会における国語のプリントの中で

    「同和教育にとりくむ教師と(ママ)午後4時に帰ることができない。教師の労働条件が悪くなる。越境入学に反対すると、有名校に越境した子どもが、部落の子どもたちの通学する学校へもどされ、有名校では先生があまるから、有名校の先生は転勤させられ、部落の子の通学している、しんどい学校へ行かんならん」

    と「要約」し、「悪意にみちた改作がなされている」と非難を受けた)
  14. 杉尾敏明「部落解放と民主教育―現代同和教育論」(青木書店, 1985.3)p.158
  15. 部落解放研究所編『戦後 部落問題関係判例[資料編]』p.192。
  16. 日本共産党大阪府委員会委員長・松島治重による。『前衛』1969年10月号
  17. 中西義雄『部落解放への新しい流れ』p.103
  18. 部落解放研究所編『戦後 部落問題関係判例[資料編]』p.200
  19. 19.0 19.1 部落解放研究所編『戦後 部落問題関係判例[資料編]』p.204
  20. 部落解放研究所編『戦後 部落問題関係判例[資料編]』p.190。
  21. 1969年4月19日には上田も逮捕監禁罪・強要未遂罪で刑事告訴されたものの、不起訴となっている。師岡佑行『戦後部落解放論争史』第4巻p.302による。
  22. 22.0 22.1 部落解放研究所編『戦後 部落問題関係判例[資料編]』p.186。
  23. 部落解放研究所編『戦後 部落問題関係判例[資料編]』p.187。
  24. 24.0 24.1 部落解放研究所編『戦後 部落問題関係判例[資料編]』p.188。
  25. この玉石教諭自身が部落出身であった。『部落』1970年、第22巻、第1~7号、p.144。
  26. 解同大阪府連副委員長西岡智の発言。部落解放研究所編『戦後 部落問題関係判例[資料編]』p.189。
  27. 解同大阪府連矢田支部長戸田政義の発言。部落解放研究所編『戦後 部落問題関係判例[資料編]』p.190。
  28. 解同大阪府連矢田書記長泉海節一の発言。部落解放研究所編『戦後 部落問題関係判例[資料編]』p.189。
  29. 大阪地裁1975年6月3日判決、判例時報782号23頁。
  30. 30.0 30.1 30.2 30.3 部落解放研究所編『戦後 部落問題関係判例[資料編]』p.189。
  31. 部落解放研究所編『戦後 部落問題関係判例[資料編]』p.201
  32. 『大阪社会労働運動史』第5巻、p.674(大阪社会運動協会, 1994)
  33. 『赤旗』1969年4月24日「四暴力分子を告訴、深夜まで監禁、強要」
  34. 中原京三『追跡・えせ同和行為』p.127(部落問題研究所、1988年)
  35. 35.0 35.1 野々山志郎「議論を封じる行為は人間否定」
  36. 36.0 36.1 36.2 36.3 36.4 中原京三『追跡・えせ同和行為』p.128(部落問題研究所、1988年)
  37. ただし、被害教師の一人は部落民であることを自ら明らかにしている。成澤榮壽編『表現の自由と部落問題』(部落問題研究所、1993年)ならびに諸岡佑行『戦後部落解放論争史』第4巻、p.290による。
  38. 部落解放研究所編『戦後 部落問題関係判例[資料編]』p.198
  39. 部落解放研究所編『戦後 部落問題関係判例[資料編]』p.199
  40. 40.0 40.1 部落解放研究所編『戦後 部落問題関係判例[資料編]』p.202
  41. 兵庫人権問題研究所編「今、あらためて八鹿髙校事件の真実を世に問う : 一般社団法人兵庫人権問題研究所開所40周年記念 : 「八鹿高校事件」40周年」(兵庫人権問題研究所, 2014)pp.341-342
  42. 42.0 42.1 成澤榮壽『表現の自由と部落問題』(部落問題研究所、1993年)所収「『長崎市長への七三〇〇通の手紙』事件と今後の課題」(野々山志郎)
  43. blrhyg.org/ibent/img2/schola.pdf
  44. 「差別糾弾」とは何か - 部落解放同盟中央本部 部落解放同盟は糾弾を以下のように定義付けている。「部落解放運動における糾弾とは、抗議であるとともに差別をした人に差別の間違いをさとらせ、部落の解放をめざす人間に変わっていくことを求める闘いであり、それは教育活動でもあるのです。さらに、その闘いを通じて被差別者である部落大衆自身が解放への自覚を高め、差別者と被差別者が、ともに人間解放への本当の意味での連帯を生み出していこうという積極的な意味ももっています。ですから部落解放運動における差別糾弾闘争は、差別する側の論理と差別される側の論理とのイデオロギー闘争であるともいえます。」